SHOE DOG  靴にすべてを

  アメリカのスポーツ用品メーカー「ナイキ」創業者、フィル・ナイト氏の自伝です。ナイト氏は、1938年生まれ。オレゴン州ポートランド出身。学生時代は、オレゴン大学で陸上選手を志し、スタンフォード大学・ビジネススクールでMBA(経営学修士号)を取得します。彼の夢は日本のランニングシューズ「オニツカ」をアメリカで販売することでした。この自伝はナイト氏が、スポーツシューズ「オニツカ」の販売権取得のため日本へ行くことを決意した1962年の夏から始まります。

  神戸の「オニツカ」(当時の鬼塚株式会社、現/㈱アシックス)オフィスを訪れた彼は、見事プレゼンに成功し、オニツカ側から代理店契約のオファーを取り付け、とりあえずサンプルをアメリカへ送ってもらうよう前払金として50ドル支払います。これがナイト氏とオニツカとのビジネスのスタートでした。

  1964年、オレゴン大学の陸上コーチであったビル・バウワーマンと共同でブルーリボンスポーツ(BRS)社を設立し、オニツカに1,000ドル分のスポーツシューズを発注しランニングシューズ “オニツカタイガー” のアメリカ国内販売をスタートさせます。当初は会計士の仕事を掛け持ちしていたナイト氏ですが、このスポーツシューズ・ビジネスが、毎年売り上げが倍増していき、このビジネス一本に専念します。しかし、会社資産や自己資金に乏しいブルーリボンは(売上が倍々で伸びて行ったにもかかわらず)、銀行の貸し渋りにもあい、資金の借入れと返済を繰り返しながら経営する「自転車操業」状態が続きます。この「自転車操業」から脱出する一つの方法は株式の公開なのですが、自分たちの経営のやり方を何より大切にしていたナイト氏は、株式公開を見送り続けるのです。毎年の倍々の成長にもかかわらず、たび重なるオニツカの輸送や発注トラブルに不満を抱いたブルーリボンは1971年オニツカとのとの提携を終了します。(本書を読むとわかりますが、当時のオニツカとの提携関係終了についてはいろいろゴタゴタがあり、それに関しては双方言い分があります。)

  この「オニツカ」との提携解消を機に、ナイト氏は独自ブランドを立ち上げることを決意します。「ナイキ」(Nike) の誕生です。(ギリシャ神話の勝利の女神「ニーケー (Nike)」がその名の由来)社名も「ブルーリボン」から「ナイキ」(Nike, Inc.) へ変更します。そして海外の生産工場選定や、新規のスポーツ・シューズの開発等を経て、1980年12月2日に株式公開を果たすのです。

  今、日本で読めるアメリカの1960年代70年代のビジネス・サクセス・ストーリー関連本は、少し前だとロバート・ノイス氏、ゴードン・ムーア氏、アンディー・グローブ氏の「インテル」、ビル・ゲイツ氏の「マイクロソフト」、スティーブ・ジョブズ氏の「アップル」などハイテクITの技術系の会社の創業者の話が多いですが、このそういった中にあってフィル・ナイト氏のシューズ業界における成功は(言葉は悪いかもしれませんが、)ローテク業界のような感じで異色です。(でも少し考えると、ハワード・シュルツの「スターバックス」、レイ・クロックの「マクドナルド」など食べ物業界のものもあるにはありますね。。)

   私的にナイト氏の事業の成功に関してまず思うのは、彼が志したアメリカにおけるスポーツ・シューズ業界(市場)と、スポーツ市場の拡大化(市民の生活向上に伴い、競技の多様化、プロスポーツの組織化、それに伴う施設拡充、スポーツ用品の多様化、充実)が一つ上げられるのではないかと思います。本書にも書いてありますが、「1965年当時、ランニングはスポーツですらなかった。人気があるなし以前に、軽く見られていたのだ。3マイルを走るなど、変わり者がおそらくよこしまなエネルギーを発散させるためにやることだった。喜びを求めて走る、運動のために走る、エンドルフィン(注)を増やすために走る。より良くより長く生きるために走るなど、誰も聞いたことがなかった。」(P107より)

  次に、ナイト氏が「信念」を持ってこのビジネスをスタートしたことが挙げられると思います。「(ポートランドまでの帰りに、)私は商売が突然軌道に乗った理由について考えた。百科事典は売れなかったし、軽蔑もしていた。ミューチュアルファンドの売り込みはまだマシだったが、内心では夢も希望もなかった。」(ナイト氏は以前短期間ですが百科事典や株式のセールスにかかわっていたのです。)「シューズの販売はなぜそれらと違ったのだろうか。セールスではなかったからだ。私は走ることを信じていた。みんなが毎日数マイルを走れば、世の中はもっと良くなると思っていたし、このシューズを履けば走りはもっと良くなると思っていた。この私の信念を理解してくれた人たちが、この思いを共有したいと思ったのだ。信念だ。信念こそは揺るがない。」(P80より)

  3つめは、最初のビジネス・パートナーとしてオレゴン大学の陸上コーチであったビル・バウワーマン氏を選んだこと。(アドバイザーとして、シューズのデザインなんかも機能性を重視した彼の体育学の視点を取り入れ改良できた。また彼の人脈を使ってシューズの売り込みを行えた。またバウワーマン氏の個人弁護士もナイト氏の創業のサポートをしてくれた。)

  さらに、ビジネスのやり方も、スポーツシューズ・ビジネス創業からの社員(というより仲間、のちに 会社内で“バッドフェイス” と呼ばれる)を尊重し、経営判断が必要な時、彼らの意見を都度聞いたこと。前述したナイト氏の「信念」のところでも書きましたが「(シューズ販売は)セールスではなかった。。。この私の信念を理解してくれた人たちが、この思いを共有したいと思ったのだ。」とあります。(このビジネス創業からの)会社の社員(バットフェイス)をパートナーとしてみていたのです。特にそれが顕著なのは、会社の「株式公開」についての話し合いです。ブルーリボンは会社の資産がなく、資金もいつも余裕がなかったので、この議題については幾度となく蒸し返されてきたものでしたが、その都度、仲間と話し合い、「(仮に株式上場すると株主優先の経営に陥り、)自分たちのやり方でビジネスができなくなる、」、と公開を見送ったのです。)

  最後に、ビジネス創業当時からの仲間たち「バッドフェイス」(デルバート・J・ヘイズ氏、ジェフ・ジョンソン氏、ロブ・ストラッサー氏、ボブ・ウッデル氏)はそれぞれ容姿や性格にコンプレックスを抱えていたのですが(フィル・ナイト氏本人も含め)、それをビジネスを成功させるポジティブなエネルギーに変えたことです。「(バッドフェイスのミーティングはひたすら楽しかった。)私たちの誰もが誤解され、不当に評価され無視されていたことも忘れられた。上司からは避けられ、運に見放され、社会に拒絶され、見た目や品の良さなどには恵まれなかった。最初に敗北者の烙印を押された私たちは自らの進むべき道、存在価値や存在意義を求めながらもうまくいかなかった。」(P426より)(さらに、「華やかさはないが、開拓者魂を持ち質実剛健」というナイト氏のいう「オレゴン的資質」もビジネス成功の要因かもしれません。)

  以前、紹介したピクサーのキャットムル氏とちがって、全体的にさらっとした文章体で、(今でいうところのサクサク感?があり)とても読みやすいかったです。

       尚、タイトルの「SHOE DOG (シュー・ドック)」とは、「靴の製造、販売、購入、デザインなどすべてに身を捧げる人間のことで、靴の商売に懸命に身を捧げ、靴以外のことは何も考えず何も話さない。そんな人間同士が、互いにそう呼び合っている。熱中の域を越し、病的と言えるほどインソール、アウターソール、ライニング、ウェルト、リベット、バンプのことばかり考えている人たち。」のことです。(P265より)一種の職人気質というか独特の美学が入り混じった言葉なんですねえ。

(注)エンドルフィン(endorphin):脳内で機能する神経伝達物質のひとつである。内在性オピオイドであり、モルヒネ同様の作用を示す。特に、脳内の「報酬系」に多く分布する。 内在性鎮痛系にかかわり、また多幸感をもたらすと考えられている。(Wekipediaより)