エクソシストは語る
エクソシストというのは、キリスト教(カソリック)で,人にとり憑いた悪魔を払う儀式(エクソシズム)を行う祓魔師(ふつまし)のことです。映画でもたびたび題材に取り上げられてますが個人的には、1973年にウィリアム・フリードキンが監督した作品が出色の出来だと思います。悪魔に取りつかれた少女を司祭が命がけで助けようとする、という人間 (精神的)救済のストーリーもパワフルですが、人間不信の時代にあって、悪魔(または、悪魔という表現を使って描かれた「不信」「不条理」)が人々の日常生活に忍び込んでいる、、という現代文明の危うさというメッセージがこの映画には込められているように感じています。(単にオカルトとかホラーのジャンルを超えた人間ドラマだと個人的には解釈しています。)
(もし悪魔が存在するとして)彼(彼等)の立場で見れば、信義が廃れ、物質文明を謳歌し、自由・欲望・享楽を享受する現代人こそ、ある意味一番つけいりやすい(憑依しやすい)獲物(対象)なのではないかと思います。だからこそフィルムメーカーたちも悪魔憑きという(一見反宗教的とも思える)題材を通して絶対的な善的なものが揺らぎ、価値観が多様化・複雑化し、AI など含めた科学の進歩の過渡期にある現代人の心の危うさを描いているのではないでしょうか。。
さて、前置きが長くなりましたが、そのような興味から「 エクソシスト」 というタイトルをオンライン書店で見つけたとき思わず購入を決めました。本書の著者は、日本に実在するカソリック司祭で、2016~2017年の二年間 (P3)実際の祓魔師を務めた 田中 昇さんです。(御本人が実名で本書を書いているのでここでも実名を出します。)田中さんは、大学/院理工学研究の博士前期課程修了後、化学メーカーに3年間勤務します。この後、カソリックの司祭を目指し、教皇庁立ウルバノ大学/院へ留学。このブログを書くにあたり、ネット検索したところ現在は、「カソリック豊島教会」の主任司祭を務められています。(会社の近くの上智大学でも神学部の非常任教師として勤務した経験があります。)
当然のこととは思いますが、このブログを読んでいる方の多くは悪魔憑き、とか「エクソシズム」について懐疑的だと思いますが、実際のところ、現代のカソリック教会組織においては、決して否定されるものではありません。実際、 田中さんが留学したウルバノ大学/院では、2005年から公認のエクソシスト養成講座が開設されています。また現在、ローマでは少なくも 300人、世界規模では 約 1,000人ぐらいのエクソシストが存在します。さらに(例えば)前ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世なども、エクソシストの資格を有していて教皇在任中に自らエクソシストとして三回の悪魔祓い儀式をおこなっています。
「 1998年10月、時の教皇ヨハネ・パウロ二世は、改訂された新しい悪魔祓いの儀式書を承認しました。翌99年1月、新しい儀式書は『盛儀のエクソシズムと関連する種々の祈り』として、ローマ教皇庁から発行。この99年版より前の儀式書が発行されたのは、1614年のことでした(*1)。その後、悪魔祓いの儀式書は約400年間、わずかな修正だけでほとんど姿をかえないまま二十世紀末まで生きてきたのです。 この新しい儀式書が公表されたとき、当時のローマ教皇庁典礼秘跡省で長官を務めていたホルヘ・メディーナ・エステベス枢機卿(*2)は、記者会見で次のように述べました。『エクソシズムの儀式は、今後も引き続き必要不可欠です。なぜなら、悪魔は実在するからです。』この言葉を聞いた記者たちは、驚きの声をあげました。二十一世紀がまもなく到来するというのに、カトリック教会は公式に悪魔の存在を認めた ー 。それはたちまちニュースとなって、一般の人たちにも驚きが広がったのです。」(以上、本書より抜粋/ P74)
カソリックの総本山であるローマ教皇庁や他の国のカソリック教会が「悪魔」の存在を認めているのとは反対に、日本のカソリック教会は「悪魔」の存在を認めることに関しては消極的で「悪魔というのは人の心の問題」という見解をとっています。そのため、日本のカソリック教会でその存在について語ることは忌避され、エクソシズムという儀式に関しても(田中さんが行った数回のエクソシズムの他は)日本で行われた実績はありません。だからこそ、理工系博士課程まで修了し化学メーカーに勤めた異色の経歴を持つ田中さんのような方がカソリック司祭として「悪魔」や「エクソシズム」について語る(本書を著す)ということは意義があるのでしょう。(これも宗教における一種の「グローバリズム」と言えるのかもしれません。)
田中さんが本書のどこかで、100年前、200年前の人たちから見れば現在の科学技術が魔法のようなものであのと同様に、今から100年後、200年後の科学技術は現在の私たちから見たら魔法にも等しいものであるはずで、その中には、「悪魔」という現在の科学では確認できないような現象さえ解明されている可能性はゼロではないはずです、という趣旨のことを述べています。(換言すると、田中さんは伝統的カソリック司祭でありながらも、同時に柔軟な思考の持ち主なのでしょう。)仏教の世界で輪廻転生が信じられているように、また、古代から現代にいたる文明において、人が臨終の際に三途の川や来世を見たという記録や証言があるように、さらに、フランスのルルドやポルトガルのファティマにおいて奇跡が起きたように、「悪魔がいないとは決して言えない」と(個人的には)思います。
話を「エクソシズム」へ戻しますが、田中さんはエクソシストとしての在任中の2年間、3回の祓魔式(エクソシズム)を行いました。最初はカソリック教会や信者の家族・親族などから知人・肉親が「悪魔憑き」なので見て欲しい、助けて欲しい、という依頼の連絡を受け田中さんが実際に当人にあったみると、実際のところそれらケースの大半(98%ぐらい)は、その人の過去の生い立ち、家族・職場内などにおいての精神的苦痛からくる精神疾患が原因でした。しかし、そいうったケースに当てはまらない症例が残りのわずか2% の中に存在し、その例外的なものが実際の「悪魔憑き」にあたるのです。といっても田中さんは好奇心や興味本位で読者が「エクソシズム」を理解することを敬遠してるためか「悪魔憑き」や「祓魔式」に関する田中さんの記述は、ごく控えめでたいへん抑制されています。(実際のケースの詳述を期待している読者には物足りないかもしれませんが、しかし、そういった表現の抑制に彼の見識が表れているように感じます。)
・・・とここまで「悪魔」について書いてきましたが、そもそも「悪魔」とは一体何なのでしょう(何者なのでしょう)。。そしてその存在理由って何なのでしょう・・(そもそも存在理由があるのか、ないのかさえわかりませんが、、) 子供の頃、「悪魔」といえば角があり、鋭い牙を備えた半人半獣のような怪物の姿が少年雑誌なんかによく描かれていましたのを思い出します。例えば、永井豪さんの「デビルマン」。地球の先住民族であった悪魔族が人類に対して最終戦争(たしかハルマゲドン?)を起こし、人間同士を互いに不信させ人がお互いに対し魔女狩り行為を始める、、そして、その悪魔族と戦うのが悪魔の力を獲得した若者(デビルマン)という設定だったと思います。
でも悪魔が地球の先住民族であったというようなことは本書では説明していません。(また、キリスト教においてもそのような解釈はなされていないと思います。) 田中さん(=カソリック教義)によると、悪魔とは、神により創造された善なる天使の中で神への嫉妬や傲慢から神に反逆し、天界から追放された天使たちがいるのですが、彼らはやがて悪霊(堕天使)となります。そしてその中で、彼らの首領となる悪霊が悪魔と呼ばれるのです。田中さんのこの説明においてそのニュアンスから「悪魔」は複数存在し、ゆえにその手下である悪霊の数はもっと多いということになります。また、実際の悪魔祓いの儀式書によると、悪魔憑きの識別要件というのがあるのですが、実際に悪魔に憑かれた者は「神聖な言葉、神聖なシンボルに対する激しい嫌悪」を示し「多くの未知の言葉を流ちょうに話す」「本人の知らない言葉を用いた会話の内容を理解する」「離れた場所にあるものや、隠れているものを言い当てる」「年齢あるいは身体的条件が備え持つ自然本姓の能力を上回る力を発揮する」などの特徴があるのです。(P27)
前述のように、田中さんの説明から推測すると、悪魔も数はそう多くないにしても(魑魅魍魎の)霊界に複数存在し、その悪魔が時々現代社会へきては人間に憑依し、その憑依した悪魔をそれまで帰属していた霊界へ追い返す儀式が「エクソシズム」という行為なのだと思います。(言い換えると、エクソシズムでは悪魔は死滅しない。そして、悪魔と悪霊は霊界という(時間の概念を越えて存在する)世界に存在しているので、残念ながらたとえ田中さん(や他の国のエクソシスト達) のエクソシズムが成功しても、別の悪魔(または同じ悪魔?)が繰り返し時空と場所を超越し、現実世界の人間に憑依する行為を続けるのだと理解しました。
田中さんは結論として、まずすべてのものは神が創造したものゆえ、当然ながら悪魔でさえ神が創造されたものである、と考えます。神は人に信仰を与え、その信仰に基づいた生活をおくるよう促しますが、いかんせん人間は弱い存在です。欲望・誘惑には打ち勝ちえない存在です。そこで、神は、「悪魔」という必要悪を時々人間界に送り込み、「悪魔」という邪心霊が実際に存在すること、人が信仰に立ち返らないとそういった邪心霊に苛まれ続ける一生を送ることになる、と人を戒め人間が信仰の世界から逸脱しないようにすることが、「悪魔」の存在意義であるのではないか、、、と自説を述べています。
なるほど。。! 確かにその解釈はしろうとの私にでさえ理にかなっているように思います。本書でも言及されていますが、2002年に「ボストン・グローブ」誌がスクープしたカソリック聖職者による幼児への性虐待事件などは、信仰に生きている人さえ、犯罪行為を犯してしまう、という人間の持つ意志の弱さ・原罪を露呈しているように思えます。人間本能が持つ 欲望・誘惑・嫉妬・傲慢。。。そして人間の犯す犯罪、殺人事件、そして 戦争、、日常においても交通事故、公害・薬害などによる被害事故、、そういった人間お互いの行う生殺与奪の数に比べれば、悪魔憑きで人が死亡する数ははるかに少ない。。。こういっては不遜かもしれませんが、悪魔は人に憑きますがむやみやたらに憑依したり、その憑依した人をすぐには殺しません。そして、正当なやり方で儀式(エクソシズム)が為されれば、その人から出て行ってくれます。(人に憑依する件数も限定的です。なにせ悪魔の絶対数が少ないから。)
こうやって考えると、ある意味悪魔よりも人間の狂気の方がよっぽど恐ろしいかもしれません。また、先にも書きましたが人間の不条理につけいるのが悪魔だとすれば、今の現代人にはそのつけいるスキはいくらでもあると思います。この本の宣伝文句に「悪魔の存在を否定した時点で、すでに悪魔は勝利を収めているーー」とありますが、悪魔についてもむやみやたらに好奇心本位で怖がったり、忌避したり、また蔑んだりせず、田中さんのように柔軟に考える姿勢を持ちたいと思いました。(こういっては変なのですが、【作品のタイトルだけからだと本書の良さがわかりませんが】、田中さんというカソリック司祭の人間性や柔軟な思考性が理解できる、ある意味とても良い本だと感じました。)
(*1)エクソシストという役務は、古代教会からあったが、正式に制度化されたのは、西暦 416年の教皇インノケンティウス一世の教令以後。(P4)
(*2)枢機卿:全世界の司祭や司教から選ばれ、教会のトップであるローマ教皇を補佐する。
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