ヒトラー 1889-1936 傲慢(上)
直近で取り上げた「夜と霧」もそうですが、本ブログでは第二次世界対戦関連の書籍をたびたび取り上げました。(チャーチル、アイゼンハワー、ノルマンディー上陸作戦、昭和日本史、、) 実は、当時のナチスドイツ指導者/ヒトラーについてもいつか取り上げたい、と思ってたのですが、(ヒトラーの研究本については、ドイツ現代史、ナチズム研究の世界的権威のイアン・カーショー氏の評伝「ヒトラー」(上・下巻)が有名です。)今年のゴールデンウイークは、10連休ということもあり、思い切ってこのイアン・カーショー氏(著者)の「ヒトラー」(上巻)に挑戦しました。
アドルフ・ヒトラーに対してはネガティブな感情を持っている人も少なくないと思います。では、この著者/カーショー氏はどのような意図でこの評伝を執筆したのでしょうか??
著者は前書きにおいて本書を執筆した動機を以下のように説明しています。「本書を執筆する間も私をとらえて離さなかったのは、1933年から45年にかけてドイツの命運をその手に握ったヒトラーという人物ではなく、むしろ『ヒトラー』なるものがいかに可能になったかという問いだった。『国の重責を担うことなどありえないと考えられていた人物がいかにして権力を手にしたか?』というだけでなく、『どうして、かつて一兵卒でしかなかった者の命令に、陸軍元帥を含む将官たちが何の疑問ももたずに従うようになったか?』 そして、『高い技術を持つ専門家やあらゆる領域の優れた人々が、大衆の間に卑しい感情をかき立てることしか能のない独学の徒にひたすら敬意をはらうようになったか?』ということである。この問いに対する答えは、ドイツ史のなかに、つまりヒトラーなるものを作り上げた社会的、政治的動機にこそ求めなければならない。そのようにして探り出した社会的、政治的な動機と、権力を握り、ついには何百万もの人々の命運を決するまでに権力を拡大するにあたって個人としてヒトラーが成し遂げたことを結びつけるのが本書の目的である。」(P9)「ヒトラーとナチズムが、ドイツ社会にとって、またかたちは違えどもナチ体制の何百万もの被害者にとって今日なおトラウマであることに不思議はない。しかし、ヒトラーの(負の)遺産は、我々にとっても引き受けなければならないものとしてある。『ヒトラーがなぜ生まれたかを理解しようと努め続けなければならない』という責務もその遺産の一部である。未来に向けて学ぼうとするならば歴史を通して学ぶしかない。そして『未来のために学ぶ』ということを考えたときに、歴史のなかでアドルフ・ヒトラーが支配した時代ほど重要な時代はないのである。」(P10)
アドルフ・ヒトラーは1889年4月20日、オーストリア=ハンガリー帝国=オーバーエスターライヒ州(国籍はオーストリア人)で、父アロイス・ヒトラーとアロイスの3番目の妻となったクララ(アロイスの従姪)との間に第四子として生まれます。( 実は父アロイスの出自については、はっきりしないことが多いのですが、このエピソードはここでは割愛します。) アロイスは典型的な役人気質で家庭内ではいつも尊大に振る舞い、地位を鼻にかけるような人物だったと言います。(P39) また突然怒りだしたり、すぐに手をあげることもあり、その暴力はクララにも向けられていたようです。アドルフはこの母を大切にしましたが、この子供時代の家庭環境が後年のヒトラー(アドルフ)の人格形成に影響を与えました。(P41)「ヒトラーは女性を見下し、支配欲が強く、厳しく権威主義的な父親のような指導者イメージを追い求め、親密な対人関係を築くことができず、人間に対して冷たく残虐だった。特に人を深く憎んだのは、極端な自己愛に隠れた強い自己嫌悪の反映だったと考えられる。あくまでも推測にすぎないが、こうしたヒトラーの後の人格に幼い頃の家庭環境が潜在的に影響していたことは想像に難くない。」(P41)
14才の時父アロイスを亡くし、16才で実科学校の前半を終えたヒトラーは、偉大な芸術家になることを夢に見ます。18才になるとウィーン芸術アカデミーの美術学科を志望し入試を受けるのですが受験に失敗し、同年には母クララも亡くなります。この後、ウィーンにもどり、叔母からの借金、母親のわずかな遺産、孤児年金などで糊口をしのぎ友人クビツェクと暮らし芸術家を目指し、翌年もウィーン芸術アカデミーを受験しますが失敗します。やがて貯えや仕送りがなくなったヒトラーはクビツェクのもとを去り、宿泊費の安い短期滞在専用の宿泊や男性用単身宿舎などで生活します。ここでヒトラーはハーニッシュという男と組みある仕事を始めます。それは、ヒトラーが風景画を描いて、ハーニッシュがそれらを売り歩く、というものでした。ヒトラーは、誰かの絵を真似たり、時には美術館や画廊を訪れ素材を探し1日がかりで一枚の絵を描き、ハーニッシュはそれを5クローネ程度で売りさばきます。こうして、ヒトラーは質素ながらもなんとか暮らしをたてていきます。また、この頃は食費を切り詰めてでもワーグナーのオペラを鑑賞し、暇なときには図書館から歴史・科学関係の書籍を読み漁りました。(ただこの知識の吸収は民族主義、人種理論、反ユダヤ主義など偏ったものになります。)24歳の時、ヒトラーは徴兵検査を逃れるため隣国南部のミュンヘンに移ります。(この逃亡により「兵役忌避罪」と兵役から逃れるための「逃亡罪」という二つの罪を犯します。)翌年の1914年1月18日ヒトラーはミュンヘン警察により逮捕され、オーストリア領事館へ連行されます。困窮を理由に弁明書を書いたヒトラーですが、結果としてザルツブルグで行われた兵役監査で不適格と判定されたため、兵役を免除され、罪も免除されます。同年8月1日に第一次世界大戦が勃発します。この時ヒトラーはバイエルン王宛に嘆願書を送り、バイエルン陸軍に志願し、入隊許可がおります。終戦までにヒトラーは伝令兵として評価を受け、いくたびとなく勲章を授かりました。(しかし、指導力の欠如を理由に、伍長以上の階級には相応しくない、と判断され低い階級のままで終戦を迎えます。)
大戦も終わりに近づいた1918年10月15日、ヒトラーは化学兵器(マスタードガス)による攻撃で一時的に視力を失い野戦病院へ搬送されます。1918年11月、第一次世界大戦がドイツの降伏により終結した時、ヒトラーは激しい動揺を見せました。彼は終戦後も兵士として軍に在籍する道を選び、退院後はミュンヘンへ戻ります。翌年5月ヴァイマル共和国軍によってミュンヘンが占領されるとヒトラーは革命中に政治活動をしていた人物に共産主義傾向があるか、を調べる調査委員となります。この働きにより帰還兵への啓発教育部隊に入り、ミュンヘン大学で予備教育を受けるよう命じられます。この時、ヒトラーは講義の受講だけでなく民族主義、反ユダヤ主義を交えた演説も行うのですが、このヒトラーの演説は聞いていた兵士たちを感激させます。ヒトラー自身、この時の経験で演説することに自信を持つようになります。7月、ヒトラーは国軍の軍属情報員となり、政党や政治団体へのスパイ行為を行う一員となり、上司から「ドイツ労働者党」(DAP)の調査を命じられます。ヒトラーはこの調査の過程で大学教授と論戦を行うのですが、この論戦においてヒトラーはまわりにいた参加者を熱狂させます。それを見ていたドイツ労働者党創設者アントン・ドレイクスラーは感銘を受け、後日ヒトラーに入党を要請、ヒトラーもこの要請を受けます。ヒトラーは徐々に党の活動に専念するようになり、国内の政治団体から過激な演説で名を知られるようになります。党内でも実力をつけ有力な政治家と目されるようになります。1920年2月24日、同党は党名を「国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、ナチ党)」と改名します。また、ヒトラーはこの頃からまわりの党員から "Führer"(フューラー、指導者/総統)と呼ばれるようになるのです。時勢を捉えた右派政党団体「ドイツ闘争連盟」(ナチ党含む)は、ベルリン政府を武力で掌握するため、「ベルリン進軍」を計画します。しかし、このクーデター(後に「ミュンヘン一揆」と呼ばれる。)は失敗に終わり、ヒトラーは首謀者として逮捕されます。この一揆のためヒトラーは禁錮5年の判決を受け、 ランツベルク監獄に収監されます。
ヒトラーはこの収監中に 自らの自伝的要素と政治思想などを著した「わが闘争」の執筆にとりかかります。この著書「わが闘争」においてヒトラーは自らの生い立ちからナチ党結成までの自叙伝を記述(ただし、ナチ党指導者として事実を都合の良いように脚色している。)し、独特の世界観やドイツの目指すべき外交観を語りますが、特に顕著なのは彼の歴史観です。ヒトラーにとって「歴史とは人種間戦争であり、アーリア高等人種がユダヤ最劣等人種に寄生されて弱体化し、破壊されつつあるという単純な二元論」で人種問題は「世界史と人類の文化全体を解き明かす鍵」であり、「その行き着くところは、ロシアでみられるようなボリシェヴィズムを通じた残酷なユダヤ人支配である。そこでは ”血に飢えたユダヤ人"がひどく残忍に非人道的な苦痛の中で3,000万人の人々を殺し、飢えさせている。」したがってヒトラーに言わせればナチ運動の使命とは「ユダヤ・ボリシェヴィズム」の破壊を意味します。(ここでヒトラーの思想においてユダヤ人とボリシェヴィズム(マルクス主義者)は同義語になります。)この目標達成のために、非人道的な帝国主義的侵略を正当します。そして、「ユダヤ・ボリシェヴィズムの破壊を通じてドイツ人には支配民族として生きていくための「生空間」が与えられる」と考えます。そして、この「生空間(東方/ロシアにおける領土)の獲得」というヒトラー独自の考え方がのちの独ソ戦の要因となるのです。ヒトラーの反ユダヤ主義は当初は反資本主義の色彩を帯びていましたが(ちなみに、ヒトラーにとっての資本主義とは、本人曰く「ユダヤ人が陰で操る金融資本主義」を意味します。)、いつしかヒトラーの思想の中でユダヤ人という存在は「国際金融資本とソヴィエト共産主義の黒幕的な強大な存在」となり、ユダヤ人とソヴィエト・ボリシェヴィズムが結び付けられ考えられるようになります。そして、ヒトラーはその双方に強い憎しみを抱くようになります。
ランツベルク監獄におけるヒトラーに与えられた禁錮刑は当初5年間だったのですが、収監された半年後の1924年12月20日に釈放されます。この辺の事情は我々にはわかりにくいのですが、当時のドイツでは、国民の多くは第一次世界大戦の敗戦とベルリン中央政府の弱腰外交のため、不当に自分たちのプライドが傷つけられていると感じていました。このため中央政府に対しクーデター(一揆)を起こし、その罪を認め、責任を一手に引き受けたヒトラーに同情を禁じ得なかった国民(その態度を賞賛しさえする人々)が少なからずいたのです。実際、一揆に対する裁判においても司法はヒトラーに同情的で、禁錮中の刑務所内でも特別待遇を受け、更には花束を持った女性の支持者が連日拘置所に押しかけるということもありました。このような当時の国民感情もあり、刑務所長から仮保釈の申請が行われたのです。
出所後の1925年2月27日、ナチ党は再建されます。1929年の世界恐慌により急速に景気の悪くなったドイツでは翌年の国会選挙においてナチ党は18%の得票率を挙げます。1932年にドイツ国籍を取得したヒトラーは大統領選に出馬。現職のパウル・フォン・ヒンデンブルグに次ぐ第2位の得票率を挙げ、その存在感を徐々に国民に示します。そして、続く1932年の国会議員選挙においてナチ党は得票率37.8%(前回得票率18%)、議席数230議席(改選前107議席)を獲得して国会の第一党に躍進。同年11月のドイツ国会選挙においてナチ党は第一党を死守しますが、この選挙において共産党が得票を伸ばします。当時においても、ドイツ財界や伝統的保守主義などの裕福層はナチスの政策に懐疑的だったのですが、当時彼らにとって、それ以上に脅威だったのが共産主義でした。前首相フランツ・フォン・パーペンの協力などもあり、ヒンデンブルグ大統領の承認を得たヒトラーは遂にヒトラー内閣を発足させるのでした。(1933年1月30日)
内閣の発足2日後にヒトラーは議会を解散し、国会議員選挙日を3月5日とします。同年2月には国会議事堂が炎上する事件が起きていて、ナチ党は政敵である共産主義者が首謀者と断定し、逮捕を始めます。このような状況下で選挙日を迎え、議席数45%(288議席)を獲得。3月21日の新国会において元皇太子ヴィルヘルム出席の中でヒトラーはヒンデンブルク大統領に深々と頭を下げ、自分が帝政の正当な後継者であるかのような演出を行います。同月24日には国家人民党と中央党の協力を得、「全権委任法」を可決させ、これにより議会と大統領の権限を形骸化させます。7月14日にはナチ党以外の政党を禁止し、その後、党と国家が一体の存在であるとします。これによりナチ党の一党支配体制が強化。さらに8月2日、ヒンデンブルク大統領が在任中で死去。ヒトラーは「ドイツ国および国民の国家元首に関する法律」を発効し、国家元首である大統領の職務を首相の職務と合体させ「指導者兼首相」として個人アドルフ・ヒトラーに大統領の職能を移譲。(ただし、故大統領に敬意を表し自分の立場は「指導者」に留めます。)この措置は8月19日の民族投票において89.93%という支持率を得て承認されるのです。(Wikipediaより)これによりヒトラーは権力を一手に掌握。国家や法の上に立ち、その意思が最高法規となる存在となりました。以後、ヒトラーの個人崇拝は国民的なものになります。
この後、ヒトラーは、ヴェルサイユ条約(注1)で決められた軍備制限を清算するため、1935年、再軍備宣言を行い、徴兵制も実施します。これはヴェルサイユ条約を反故にするものでしたが、例えばイギリスなどは、当時ロシアで広がっていた共産主義の伝播を恐れていたこともあり、このドイツの再軍備を容認します。また、この勢いでヴェルサイユ条約で、「左岸でも、右岸から50km以内の地帯でも要塞を建設すること、あらゆる軍事的準備を行うことが禁じられていた」非武装地帯であるラインラントへの進駐を行います。実はこの「ラインラント進駐」においてはヒトラーはフランスからの進駐を恐れていたのですが、結局、フランスはリスクを冒さず、進駐しませんでした。
「ラインラント進駐」のニュースはドイツ国民にそれまでの何年間かの中で最高の高揚感と祝祭気分をもたらしました。実は、再軍備宣言の直後でも、このラインラント進駐直後においても、ドイツ国民は、イギリスやフランスの反応に非常に神経質になり、「(この行動のせいで)戦争が起きるかもしれない。」という大きな懸念を感じたのです。しかし、結果的には周りの国からの反発はなく(あったとしても各国は沈黙を守ったため)これら二つの出来事により(第一次世界大戦の敗戦などで)萎縮していたドイツ国民の感情を高揚させることになったのです。この喜びはナチ党やヒトラーを支持していなかった人々にまで深く浸透していきます。この当時のドイツの空気がどのようなものであったかわかる箇所が本書にあるので引用します。「ハンブルクの中産階級の主婦で保守的ナショナリストのルイーゼ・ゾルミッツは、部分的にユダヤ人の血を引く元将校の夫と、自分たちの娘にはニュルンベルク法の(注2)下ではドイツ公民権が認められないと (19)35年に知らされて驚きはしたものの、ヒトラーに対する賞賛を隠さなかった。『このところの出来事には完全に圧倒されている、我が国の軍の再進駐、ヒトラーの偉大さ、その演説の力、この男の持つ力を思うと嬉しくてたまらない。何年か前、士気を喪失していた頃には我々はそのような行動を考えようともしなかった。総統は世界に対して繰り返し既成事実を突きつける。世界も個人もかたずを飲んで見守っている。ヒトラーはどこに進んでいくのか。最後は、演説のクライマックスはどうなるのか。どんな大胆さ、どんな驚きが待つのか。そして攻撃に次ぐ攻撃だ。恐れることなく勇気をもって、言ったことは実行する。ひどく力づけられる。それが総統の測り知れないほど深い秘密だ。そして彼はいつも幸運に恵まれる。』とゾルミッツは書く。」(P610)(このように、ユダヤ人の親族を持つ、当時反ユダヤ主義を標榜するヒトラーと対立する側にあった人々でさえ、ヒトラーを賞賛したのです。)
現代から考えると、とても考えられないのですが、当時、演説などで公に反ユダヤ主義、反共産主義を説き、しかも、その人々の抹殺を語り、政治や経済、外交の考え方も極端に偏り、外国侵略によりドイツ国内経済の回復を訴えていたヒトラーでしたが、(このゾルミッツ氏が語るように、)他の政治家に比べると行動力もあり、周辺国に屈しないヒトラーの姿はドイツ国民にとっては正に「英雄」として映ったのです。
このようにして、体制内の全権力をほぼ完全に支配し、国民から絶大な人気を得ることに成功し、不可侵な立場に立ったヒトラーは、次第に「『何事も自分の予見通りになる、自分は神に導かれている。』と考えるようになった」(P611)のです。そして、ヒトラーは 1936年3月14日のミュンヘンの大集会において次のように演説します。「あたかも夢遊病者が何かに導かれて進むかのように、私は天意が進めと命ずる道を悠然と歩む。」
(注1)ヴェルサイユ条約:第一次世界大戦の連合国とドイツの間の講和条約。ドイツに過酷な負担を強いる。(注2)ニュルンベルク法:ユダヤ人の血を引く個人の権利を制限。ユダヤ人から公民権を奪い取った法律として悪名高い。
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