スターリン-赤い皇帝と廷臣たち〈上〉PART1
皆さんは「スターリン」という人物の名前を聞いたことがあると思います。また、第二次世界大戦の終わり(1945年)に、連合国が戦後処理について話し合ったヤルタ会談の写真(下)などでなんとなくその容姿ぐらいは御存知な方も多いのではないでしょうか?(下の写真では、中央のアメリカのルーズベルト大統領、右側のイギリスのチャーチル首相と並んで、ソ連の代表として写真左に堂々と軍服姿で座っています。)
このスターリン(本名は、ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ、1876年12月6日生まれ。ただし、公式の生年月日は、1879年12月21日)は、当時のソ連において、連合国と敵対していたドイツのヒトラーと並ぶ独裁者といっても過言ではない人物でした。本書「スターリン―赤い皇帝と廷臣たち」〈上〉の 著者/サイモン・セバーグ ・モンテフィオーリ氏(イギリスの歴史家、作家) は、本書を単にスターリンの評伝という枠にとどめず、「彼とその20人ほどの重臣たち、そして彼らの家族の肖像を描き出し、スターリンがどのようなスタイルで国家を支配し、当時の独特の文化の中でどのように生きたか。」(「序言と謝辞」P11より)に焦点をあてたものにしています。
もう少しわかりやすく説明しますと、スターリンの統治初期の頃は、スターリンやその重臣達は家族も含めて、クレムリン( 総延長2・25kmの城壁に囲まれ、数々の宮殿や教会が集まっている敷地)という塀の中の狭い社会で、共同生活のような付き合い方をして暮らしていました。(「1930年代半ばまでは、、学生クラブのような親密な関係が存在していた。クレムリンの住人達はいつも互いの家を行き来していた。親達、子供達も家族の枠を超えて付き合っていた。クレムリンは人間関係がこの上なく緊密な村社会だった。」(P86 より) そして、クレムリン内における共産党幹部たちの「村社会」的共同生活から派生した、スターリンと配下の重臣達の関係は、ある種の家父長制的家族における父と息子達の関係、あるいは、徒弟制度における親方と弟子のような関係に発展し、その濃密で独特な関係はスターリンが死ぬまで続いたのです。(例えば、これは下巻の紹介でも説明しますが、重臣たちは、スターリンから連絡があれば、たとえ平日の遅い時間や週末でも、彼の好きな映画の上映会や、夕食、それに続くお酒の席にも付き合わなければいけなかったのです。)そして、その統治スタイルの根底にあったのは、「恐怖による支配」でした。独裁的で、嫉妬深く、猜疑心の強いスターリンは、密告を奨励し、重臣達を互いに敵対させ、「拷問」と「粛清」による恐怖で自らの権力を維持したのです。そして、このボルシェビズムの独裁者スターリンと重臣達、そして、その家族達という「支配する側」と「支配される側」の一種独特で濃密な人間関係、そして、その心理描写の面白さがこの作品の特徴になっています。
1929年12月21日、スターリンの公式の50回目の誕生日に幹部たちは、スターリンのズバロヴォ邸に集まりスターリンを指導者「首領」として、また、レーニンの正統な後継者として称えます。(この頃のスターリンは、確かに寡頭政治体制の最高指導者ではあったのですが、しかし、独裁者からはまだ程遠い存在でした。) 彼らボルシェビキは当時、西洋の大国に負けにない強大国を建設するため、工業化計画である「5カ年計画」を強硬的に推し進めようとしていました。そのため、彼らは敵とみなす農村部における富農階級 (クラーク) を永久に排除する決意を固めていました。「誕生日の祝宴から数日後、スターリンの重臣たちは、農村部での闘争を強化し、『階級としてのクラーク』を『絶滅』しなければならないという使命を思い知る。闘争に秘密警察が導入され、組織的な暴力、悪意に満ちた略奪、狂信的なイデオロギーが総動員されて、数百万人規模の殺戮が始まったのである。重臣達にとって農業集団化にどれ程強硬に取り組むかがその後の運命を左右する試金石となった。この最終的危機に際して、どれだけの功績をあげたかに応じてそれぞれの将来が決まった。しかし、この数ヶ月間にばら撒かれた害毒は、スターリンの友人関係を破壊しただけでなく彼らの夫婦関係をも台無しにした。この時始まった負のプロセスは、やがて1937年の拷問室で頂点を迎えることになる。(*1)」(P97)
1931年末、スターリンをはじめとする党幹部が休暇に入っている頃、ウクライナを中心とした農村部では大飢饉が広がっていました。この飢饉は「そもそも銑鉄の精錬所を建設したり、トラクターを製造したりするための強引な資金調達を行わなければ、発生しなかった悲劇である。この悲劇の犠牲者となった死者の数は少なくとも400万人から500万人、最大で1000万人と推定されている。ナチスの虐殺と毛沢東のテロルを別とすれば、人類史上に類例のない悲劇だった。」(P167) 現地を視察したある人は「農民達は犬を食い、馬を食い、腐ったジャガイモを食い、樹の皮を食い、目に入るものは何でも食った。」と証言しています。(P163) また1932年、アメリカの急進主義者フレッド・ビールが当時ウクライナの首都ハリコフ (現ハルキフ) 近郊のある村を訪ねると、「一人の女性を除いて村人全員がすでに死亡していた。生き残ったその女性も発狂していた。村のみすぼらしい家々に放置された死体はネズミに食い荒らされていた。」と話しています。(P166)
フレッド・ビールがウクライナ大統領ペトロフスキーに事態を報告すると「それは残念なことだがソ連邦の輝かしい未来のためなら、やむを得ないだろう。」 1933年までに、110万世帯、すなわち700万人の農民が土地を失い、その半数が強制移住の対象になったと推定される。消滅した世帯は300万世帯にものぼる。1931年に農業集団化が始まった時、全体で約2,500万世帯あった農家のうち1,300万世帯が集団農場に囲い込まれた。1937年までに集団化された農家は1,850万世帯だが、農家の世帯数は全体で1,990万まで減少した。約1,500万人に相当する570万世帯が強制移住させられ、その多くが死亡した。(P180) スターリンは後に「この時期 ( 31、32年頃 ) が生涯で最も苦しかった、この時期に比べればヒトラーの侵略の方がまだマシだった」と、チャーチルに語っている。「なんともひどい闘いだった。」 やむを得ず殺害しなければならなかった人々の数は「1,000万人に達した。恐ろしいことだ。闘いは四年間続いた。しかし、どうしても必要だったのだ、、連中と議論しても無駄だった。一部は国の北部に移住させたが、、、農民同士の争いで虐殺された者も少なくない、、それほど激しい憎悪が渦巻いていたのだ。」(P176)
ヒトラーも独裁者として「人種政策」の名のもとに多くの人を虐殺しましたが、一方、スターリンの場合は「ボルシェビズム」という教義(そして、本音では「自分の権力維持」)のために虐殺を行うのです。。(この虐殺は後年、「大粛清(大テロル)」*2 と呼ばれます。)(前述しましたが)権力掌握したての頃のスターリンはまだ完全な独裁者ではなく、党内には古参党員を中心にスターリンの台頭に危機を覚える者が多数存在していました。そんな中、1934年12月に共産党幹部、セルゲイ・キーロフが、レニングラード共産党支部においてレオニード・ニコライエフという青年に暗殺されるという事件が起きます。この事件については、当時キーロフの存在に脅威を感じるようになっていたスターリンが、部下のゲンリフ・ヤゴーダに命じ暗殺させた、という説が有力ですが真偽は定かではありません。(Wikipediaより) (しかし、本書を読むとわかるのですが、キーロフは当時、多くの党員から支持されていた人気者で、スターリンは、彼の人気に嫉妬し、キーロフを疎ましい存在に思っていたので、キーロフ暗殺を画策し、併せて、党内の反対を一掃したい、という思いがスターリンにあったとしても決しておかしくはなかったことがよくわかります。)
このキーロフ暗殺事件をスターリンは反対派 (自らの指導体制を脅かす可能性のある者達) の排除に利用します。「スターリンは自身の生い立ちから人一倍コンプレックスを強く感じるゆえ、異常なまでの権力欲と顕示欲の塊であり、その目的を達するなら手段をまったく選ばなかったのである。」 スターリンは、トロツキー、カーメネフ、ジノヴィエフを含めた自身の反対勢力者達を徐々に粛清の対象にしていき、この粛清は (1936年から) 1938年まで続く「大粛清」に発展していきます。共産党中央政治局の最高責任者の座に君臨していたスターリンは権力を絶対的なところまで強化し、法律を都合のいいように変えてしまい、政治反対者、自身のイデオロギーに反対する者、ボルシェビキの古参党員達、日和見主義者、反革命分子を追放するため次々に裁判、尋問、拷問を行い、反対分子(また、反対分子になる可能性のあるもの含め)に対し強制労働、国外追放、処刑といった処分を下していきます。(当然ですが罪状を否認する人間には拷問を加え強制的に自白を引き出します。)
(PART2に続きます。)
(*1)(*2)スターリンの「大粛清」は1937年に頂点を迎え、多くの人々が処刑されました。* ”テロル” とは 「恐怖政治」のこと。
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