スターリン-赤い皇帝と廷臣たち〈上〉PART2
(「スターリンー赤い皇帝と廷臣たち」〈上〉PART1 からの続きです。)
ではなぜ、ソ連ではこのような大規模な「粛清」が可能となり、そして、その目標はいったい何だったのでしょうか? それらを理解するには、まず、ボルシェビキの思想を理解する必要があります。 「 ボルシェビキは、レーニン主義者という『新しい人間』の創造が可能だと真剣に信じて教育に力を注いでいた。党幹部たちはほとんど正規の教育を受けずに、不断の努力を重ねて学んできた独学者だった。党は単に家族に優先するだけでなく、家族よりも上位に位置するスーパー家族だった。スターリンはブハーリン(*1)に対して『個人的問題は、、まったく何の意味も持たない。我々は家族のサークルでもなければ、親友のグループでもない。労働者階級の前衛政党なのだ。』と説教していた。幹部達は個人の情愛を断ち切る訓練さえしていた。『ボルシェビキは、自分の妻よりも仕事を愛すべきだ。』とキーロフ(*2)は言った。ある晩、クレムリンの夕食の席でスターリンはエヌキゼ(*3)に言ったことがある。『本物のボルシェビキなら、家族を持つことはできないし、また、持つべきでもない。全身全霊を党に捧げなければならないからだ。』 ある古参党員もこう言っている。『 党と個人のどちらかを選ばねばならないとしたら、党を選ぶべきだ。なぜなら、党には大多数の人間の幸福という偉大な目標があるが、個人はただの一人にすぎない』」(P138) このようにスターリンが理想としたボルシェビキ像というのは、「日常の人間関係(家族、親子、兄弟、姉妹、友人、恋人、、)を完全に断ち切ることができ、ボルシェビズムを100%貫徹できるきる一種のマシーンのような存在だったのです。(スターリンも重臣たちも家族は持っていましたが。中には粛清で家族を失うものもいたのです。)
では、「粛清」の対象となったのは、どういった人たちだったのでしょうか? ある人は「まったく無意味に殺された。」と言います。(P435) 「 モロトフ(*4)は、『彼らが殺されたのは、過去に何をしたかではなく、これからやるかもしれない行為のためだった。』と説明している。『重要なのは、いざという時に彼らが信用できるかどうかということだ。』 事実、ルズターク(*5)のような容疑者は『意識的に』裏切り行為をしたわけではなかった。潜在的な裏切りの可能性がある、ということが問題だった。したがって、スターリンは処刑後になっても犠牲者達の業績や人格を称賛し続けることがあった。、、1937年1月の裁判についてスターリンに報告したヴィシンスキー(*6)は、被告達について『彼らは信念を失った連中です。』と言っている。信念を失った者は死ななければならなかったのである。彼は、また『破壊工作を行う者だけが人民の敵なのではない。党の路線の正しさを疑う者こそ人民の敵なのだ。そういう連中は山ほどいる。彼らを全部始末しなければならない。』、、スターリンも、自分がスターリンの信頼を失っていないかどうかを必死に聞き出そうとしていた幹部党員に『政治的には君を信頼している。しかし、将来の党活動という見地から言うと、断言はできない。』と言ったといいます。(本書を読むとわかりますが、このように少しでもネガティブな人物の評価を示すスターリンの言い方は、その当人が ”粛清対象である。”ということとほとんど同義語なのです。)要するに、(前述しましたが)ボルシェビズムに何らの疑問を挟まず、情をはさむような人間関係も超越した100%のボルシェビキ以外はいかなるボルシェビキも粛清の対象になったのです。ですから、重臣達、その家族でさえ当然、監視されその行動次第では粛清の対象になったのです。(実際、スターリン・ファミリーのスタニスラス・レーデンス(*7)やパーヴェル・アリルーエフも粛清(*8)されたのです。)
スターリンが「大粛清」を遂行するにあたって、中心的な役割を果たしたのが当時の秘密警察、NKVD ( エヌ・カー・ヴェー・デー ) でした。そして、この秘密警察の強化にあたりスターリンから抜擢されたのが、ニコライ・エジョフ(*9)です。1937年7月、政治局は各地の書記局に「最も敵対的な反ソ分子」の逮捕と銃殺を司令します。この頃から容疑者個人の名前を特定することさえせず、数千人単位の数字を割り当てて逮捕処刑せよ、という命令が下されるようになります。「命令の目的は、すべての敵と社会主義的再教育が不可能な者達を最終的に一掃すること、それにより階級の壁を取り払い、人民の天国を実現することにあった。最終解決としての殺戮に意味を見出すためには、ボルシェビズムが掲げる理想への信頼が不可欠だったが、それはある階級の組織的破壊を善として信ずる宗教に等しかった。だからこそ、五ヶ年計画が工業生産を割り当てたのと同じ手法で、人数を割り当てて殺戮する方法が当然のように採用されたのである。細かいことはどうでもよかった。」(P410)
「この魔女狩りは絶頂期に達し、各地方の実力者たちの嫉妬と野望に後押しされたこのシステムに投入される犠牲者の数は増える一方だった。」そして、期間中に割り当て数を達成した地方は、追加の割り当て数を要請し、それを政治局が了承することもありました。このように、当時ソ連では時として無原則的な殺戮も行われたのです。「 例えば、長く忘れられていた昔の言葉を思い出したために、反対派と付き合った過去があったために、他人の仕事や妻や住宅への妬みのために、個人的な復讐心のためにあるいまったくの偶然のために、家族全員が殺害され迫害されたのである。理由は何でもよかった、、『 不十分であるより、行き過ぎの方がマシだ。』と、エジョフは部下に演説した。」(P411) 「『 いちいち選り分けたりせずに、誰でもいいから殴り倒して始末しろ。』とエジョフは、腹心たちに命令した。精力的に逮捕することによって『作戦への積極性』を示さなかった者は、自分自身が始末された。『この作戦にあたっては、無関係な人間1,000名が巻き添えになって射殺されたとしてもそれほど重大なことではない。』 スターリンとエジョフは、絶えず割り当て数を引き上げたので、余分な1,000名の処刑は至る所で発生したはずである。」(P412)「この流血の上に成立する社会システムにおいては、明日の幸福のために今日の殺人が正当化された。大粛清を単にスターリンの怪物性の結果として片づけることはできない。だが、一方、敵意と復讐心に満ちたスターリン独特の強烈な性格がテロルに形式を与え、テロルを拡大し、加速したことも間違いない。『最上の喜びは敵に狙いをつけ、すべてを準備した上で、完全に復讐を果たしそして眠りにつくことだ。』」と、スターリンは語ったと言います。(P413)
そして、当時の秘密警察 NKVD において、迅速な「割り当て」目標達成に貢献したシステムが「拷問」でした。拷問については1937年、政治局はその採用を正式に承認しています。拷問を承認したことについては、後にスターリンが「NKVDが尋問にあたって物理的圧力を活用することは、、中央委員会が許可したものであり、全面的に正当かつ適切な方法である。」と確認しています。当時の NKVD 長官、エジョフは、午前中に拷問室で一仕事済ませ、その足で政治局に直行して会議に出席するのが日課でした。そのため、エジョフは拷問で容疑者の血痕がついた制服で会議に出席することもありました。ある日、フルシチョフ(*10)はエジョフに「(服についている血痕を見て) その汚れは何か?」と質問したところ、エジョフは青い眼をキラッと光らせて、「これは誇るべき染みだ。革命の敵が流した血の跡だ。」と答えたと言います。(P440)
エジョフの監督下で働く拷問官たちは仕事においては独特の用語を使っていて、例えば、無実の人を拷問して自白させる過程は「フランス式レスリング」と呼ばれていました。また(当時の)拷問官は逮捕後の尋問において、拷問の際に、特殊棍棒「ジグート」やゴム製棍棒「ドゥビンカ」の使用、また長時間眠らせず連続的に尋問する「コンベヤー・ベルト」という伝統的拷問を使った、と証言しています。また、多くの場合、囚人たちはあまりに激しく殴られるので、眼球が眼窩(がんか)から飛び出したといいます。( エジョフの後任長官、ベリヤ(*11)のもとで行われた重臣エイヘ(政治的失脚で拷問の対象となった)(*12)の拷問も過酷を極めました。「エイヘが倒れると、担ぎ上げて立たせ、再び殴った。ベリヤは『スパイだったことを自白するか?』 エイヘは自白を拒否した。エイヘの顔から片方の眼球が飛び出し、眼窩(がんか)から血が噴出したが、それでもエイヘは、『自白しない』とくりかえした。自白が引き出せないことがはっきりすると、ベリヤはエイヘを別室で射殺するように命令した。」(P572) 殴られた囚人が死亡することは日常茶飯事であり、その場合、死因は心臓発作として記録されました。チェーカー(*13)には昔から拷問信仰ともいうべき伝統があり、拷問官の一人、レオニード・ザコフスキーは、「拷問マニュアル」という書物を書いています。 また、「拷問」と並んで「密告」も「大粛清」の目標を達成するために機能したシステムでした。「ひとたび大粛清が発動されると、密告が火に油を注ぎ、絶えることなくテロルの炎を燃え上がらせた。スターリンの許には、助命嘆願書だけでなく、死刑を求める密告文書が数多く届けられた。密告はすでにスターリンの政治システムの本質的な一部となっており、万人が万人を密告することが要求された。」(P442) (後にスターリンは、助命嘆願のあまりの多さに音を上げて、助命嘆願を禁止する政治局命令を出した、といいます。P448 )
では、「大粛清」についてスターリンの重臣達は(スターリン亡き後)どのように語っているのでしょうか? 「 スターリンの大粛清を支持した取り巻き達は、その後数十年を経た後も、彼らが実行した大量殺人を弁護している。『私は抑圧の責任を負っているが、抑圧は正しかったとも考えている。』とモロトフは語った。『政治局の全メンバーに責任がある、、しかし、1937年という年は必要だった。』 ミコヤン(*14)も『スターリンとともに働いた者全員に、、一定の責任がある』ことを認めている。多くの人々を殺したことは確かに良くなかった。しかし、犠牲者の多くが、自分たちの曖昧な基準に照らしてさえも、明らかに無実だったという認識に至ることは彼らにとって困難を極めた。『我々には行き過ぎという罪がある』とカガーノヴィチ(*15)は言っている。『我々全員が間違いを犯した、、しかし、我々は第二次大戦に勝利したではないか。』 大量殺人を実行した当時の幹部達をよく知る人々はマレンコフ(*16)とフルシチョフの二人について、『彼らは本性から邪悪だったわけではなく、結果として、邪悪なことをしてしまったのだ。』と、後に回想している。結局、この二人とも時代の子だったのだ。」(P454)
そんな独裁者スターリンですが私がすごいな、と感心したところが一点、あります。それは彼の読書量です。「神学校にいた1890年以来、貧欲な読書家だったスターリンは1日の読書量が500ページにおよぶことを自慢していた。流刑中は、仲間の囚人が死ぬとその蔵書を盗んで独り占めし同志達がいくら憤慨しても決して貸さなかった。文学への渇望は、マルクス主義への信仰と誇大妄想狂的な権力願望と並んで、スターリンを突き動かした原動力のひとつだった。この三つの情熱がスターリンの人生を支配していたと言っても良い。、、エカテリーナ二世からウラジミール・プーチンに至るロシア歴代の支配者の中で、スターリンが最大の読書家だったと言っても過言ではない。もちろん、レーニンも優れた知識人であり、帝政時代のエリート教育を受けていたが、こと読書量に関して言えば、おそらくスターリンには及ばなかったであろう。「彼は向上心に燃えて、いつも熱心に勉強していた」とモロトフは言っている。スターリンの書斎には十分に読み込まれた二万冊の蔵書があった。「周囲の人間がどういう人物かを知りたければ」とスターリンは言った。「彼が何を読んでいるかを見ればいい」。(スターリンの蔵書には「イエスの生涯」を始め、ゴールズワージー、ワイルド、モーパッサンの小説まで揃っており、後年にはスタインベックやヘミングウェイの作品も加わった。スターリンの孫娘は、祖父がゴーゴリ、チェーホフ、ユゴー、サッカレー、バルザックを読んでいた。と娘のスヴェトラーナは証言しています。)(P187)
注)(*1)ブハーリン:ニコライ・ブハーリン/レーニンに評価され、スターリンと協力していたが、右派として粛清された。(*2)セルゲイ・キーロフ/レニングラード市共産党第一書記、中央委員会書記、政治局員。(*3)エヌキゼ:アヴェル・エヌキゼ/中央執行委員会書記、スターリンの二番目の配偶者、ナージャの名付け親。(*4)モロトフ:ヴャチェスラフ・モロトフ/政治局員、首相、外相。(*5)ルズターク:ヤン・ルズターク/スターリンの大粛清の支持・協力者だったが自身も粛清された。(*6)ヴィシンスキー:アンドレイ・ヴィシンスキー/大粛清下でのモスクワ裁判における検察官。(*7)スタニスラス・レーデンス/スターリンの二度目の配偶者、ナージャの義兄。スターリンが疑っていた複数の集団に関わっていたとされ、出勤途上で逮捕され、その後行方不明に。(*8)パーヴェル・アリルーエフ/スターリンの二度目の配偶者、ナージャの兄。毒殺(粛清)された疑いがある。(*9)ニコライ・エジョフ/NKVD長官。(*10)フルシチョフ:ニキータ・フルシチョフ/モスクワ市共産党第一党書記、ウクライナ共産党第一党書記、政治局員。(*11)ベリヤ:ラヴレンチー・ベリヤ/秘密警察幹部、NKVD長官(エジョフの後任)、政治局員。(*12)エイヘ:ロベルト・エイヘ/ソ連邦農業人民委員、ソ連邦最高ソヴィエト代議員。(*13)チェーカー:レーニンにより設立された秘密警察組織。(*14)ミコヤン:アナスタフ・ミコヤン/アルメニア人の古参ボルシェビキ、政治局員。(*15)カガノーヴィチ:ラーザリ・カガノーヴィチ/ユダヤ人の古参ボルシェビキ、30年代初期のスターリンの副官、鉄道省大臣、政治局員。(*16)マレンコフ:ゲオルギー・マレンコフ/中央委員会書記、ベリヤの盟友。
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