スターリン-赤い皇帝と廷臣たち〈下〉PART1
サイモン・セバーグ ・モンテフィオーリ氏(著者)の「スターリン―赤い皇帝と廷臣たち」〈下〉ですが、この 下巻の「PART1」では、スターリンがどのように部下(廷臣)を支配していたのか、一種独特で濃密な上下関係を紹介します。
第二次大戦の勝利者になり、名声を欲しいままにしたスターリンですが、巨大化した政治権力とは裏腹に、個人生活では疲労と消耗の度合いが深まり、危険で無防備な立場に追い込まれた、という強迫観念に悩まされるようになります。また、この頃から、老いと衰弱が目立つようになったスターリンは、強大な権力と衰弱する体力の不一致に苦しみ始め、極めて危険で予測不可能な言動が目立つようになります。(この頃から、以前は嫌がっていた医師団の治療も受けるようになります。)(P272) この頃のスターリンは「ひどく苛立っていた。晩年は、手がつけられないほど危険な状態だった。スターリンの気分は極端から極端に揺れ動いた」とモロトフは言っています。「スターリンは重臣達の名声をやっかみ、重臣たちの権限拡大に疑念を抱き、弛緩 (しかん)して独善的になっていることに腹を立てていた。スターリンにとっては、病身の老人になってからでさえ、最大の楽しみは闘争の指揮をとることだった。闘いは彼の天賦の才であり、闘いこそがスターリンの本来の姿だった。どんな場合でも誰かの背骨をへし折っている必要」(P276) を常に感じていたのです。
そのようなスターリンの態度の変化を敏感に感じ取っていた廷臣達は、これまでにも増してスターリンへの対応に気を配るようなります。そのため、重臣たちはスターリンとの夜毎の付き合いに耐えなければなりませんでした。ベルリンから千島列島に至る全領土の支配方針は、今やスターリンの映画室と晩餐の食卓で決定されると言っても過言ではなかったのです。「昼夜の区別を無視して時間の流れに挑戦すること、それが専制支配の有効性を測る最終的な尺度となった。」(P276)
そのため、重臣達達 ( ベリヤ、モロトフ、ミコヤン、マレンコフ、ジターノフ(*1)、フルシチョフ等) は、会議が終わった後、スターリンが主催する映画会とその後に続く晩餐会の招待を断ることはできませんでした。また、モスクワ訪問の際、スターリンの謁見を賜った東欧諸国の指導者達もこの映画会と晩餐会のメンバーになります。 「会議が終わると、スターリンは決まって重臣たちを映画に誘った。そして、先頭に立って赤と青のカーペットが敷かれた廊下を歩き、一行を大クレムリン宮殿の三階に、贅を尽くして作った映画室まで案内するのだった。」(P277)「映画室を管理するのは国家映画産業トップのイワン・ボリシャコフだった。前任者の映画産業トップが二人続けて銃殺されていたので、ボリシャコフはスターリンを心底から恐れていた。スターリンは歳を取るにつれて映画に取りつかれる度合いが深まり、ただ鑑賞するだけでなく、政治の道具として、また、政治の場として映画を利用するようになった。上映する映画の選択はボリシャコフの重大な任務だった。映画はスターリンの気分を忖度して選定しなければならなかった。ボリシャコフは、指導者スターリンの歩き方や声の調子を注意深く観察し上映すべき映画を決めた。スターリンの機嫌が悪い時には、新作の上映は考え物だった。スターリンの映画の趣味は極めて保守的で、気に入った古い映画は何度でも飽きることなく見た。たとえば、30年代の旧作『ボルガ、ボルガ』は大のお気に入りで、外国映画では、『シカゴ』や『ミッション・トゥー・モスコー』、喜劇『ある夜の出来事』、あるいはチャーリー・チャップリンの作品などを繰り返し観た。殴り合いのシーンはスターリンを喜ばせたが、性的な露出はご法度だった。ある時、ボリシャコフが選んだ映画に裸体の女性が登場する少々際どいシーンがあった。スターリンはテーブルを叩いて怒鳴った。『ボリシャコフ!君はここで売春宿でも始めようというのか?』そう言って、スターリンと重臣達は席を立ち去った。ボリシャコフはその時、逮捕されることを覚悟し、それ以来、裸体のシーンはすべてカットされた。」(P279) また、ある時、映写技師の一人がプロジェクターの部品を落として壊し、その壊れた部品から水銀が流れ出て床に広がったことがありました。この時の映写技師たちは逮捕され、大元帥(スターリン)暗殺未遂の罪で起訴されました。
「スターリンは映画の上映中でも映画を観ながらずっと話続けた。カウボーイ映画が大好きで、特にジョン・フォード監督の作品が気に入っており、スペンサー・トレーシーとクラーク・ゲーブルのファンだった。スタ-リンは、政治を映画に重ね合わせたが、同時に映画を現実に重ね合わせることもあった。関係者によれば『無教養な人間が現実と芸術的真実を取り違えるように、スターリンは映画と現実を混同した。』 彼は、主人公が友人を次々に殺害するという内容の映画がいたく気に入っていた。フルシチョフとミコヤンは、その映画を繰り返し観させられた。金塊を盗んだ海賊が戦利品を独り占めするために共犯者を一人ずつ殺していく映画だった。『何という奴だ!奴の手口を見ろ!』とスターリンは感嘆した。これはスターリンの同志たちにとって気の滅入る話だった。彼らは自分たちが『臨時の人材』であることを思い知らされた。(これは、スターリンは目的達成のためなら、部下の犠牲も厭わないことを示していたからです。)スターリンが孤立を深めるにつれて、この種の映画の影響力は拡大していくようだった。」(P283)
「スターリンの映画会は通常二本立てだった。立て続けに二本の映画を見終わるのは午前二時頃だが、スターリンは決まってこう言うのだった。『さあ、何か食べに行こう。もし諸君に時間があればの話だが。』(しかし、重臣たちにとって選択の余地がないのは明白なのです。)『お誘いとあらば、もちろん喜んで。』とモロトフが答える。すると、スターリンは他の招待客に向かっても質問する。『今夜は何か予定があるかね?』 真夜中のこの時間に、何か仕事の予定があり得るかのような言い方だった。スターリンは笑いながら『ふむ、君たちにの政府には国家計画というものがないようだな。よろしい、では、一口食べに行こう。』その『一口』は平均6時間。延々と夜明けまで続くのだった。」(P283-284)
広々とした食堂には、長いテーブルがあり、スターリンはそのテーブルの上座の左側の席に座ります。他の者が席に着くとすぐに酒宴が始まります。最初はワインか、時には、アルコール度の低いグルジア産「ジュース」やシャンパンも出てきます。「 宴が進むにつれて、ウォッカの乾杯が重なり、唐辛子入りのウォッカとブランデーが強要された。鉄のような胃袋を持つ酒豪たちでさえ、したたかに泥酔することになる。グルジア(スターリンの出身地)の宴会の伝統では、ホスト役は客に酒を勧めるのが礼儀であり、客が断れば不快な振りをするのが礼儀だった。礼儀は今や形を歪め、権力と恐怖の醜悪なゲームに変わっていた。頑強な同志たちに酒を強要して羽目を外させること、それがスターリンの楽しみであり、支配者としての優位を実感する瞬間だった。」(P286)(スターリンは、酒を勧めてまわり、)重臣たちをしたたかに酔わせて本音を吐かせ、そして、(酒に酔った)重臣たちの屈辱的な姿を見たいと思っていたのです。
「宴会での飲酒は時として限度を超えた。まるで大学生のような酒盛りのようだった。いい年をした重臣たちが、肥満した身体を揺すってよろよろと部屋を駆け出して、嘔吐し、自分の服を汚し、最後にはボディガードに担がれて帰宅する始末だった。スターリンはモロトフの酒の強さを称賛したが、そのモロトフでさえ泥酔した。ポスクリョーブィシェフ(*2)は必ずと言っていいほど吐いた。酒豪のフルシチョフはべリヤに負けずスターリンの歓心を得ようとして、大量の酒を飲んだが、時にはあまりにも酔いすぎて、ベリヤの手で家まで送り届けれられた。ベリヤはフルシチョフを家まで送り届け、ベットに寝かしつけたが、フルシチョフはしばしば失禁してベットを濡らした。ジターノフとシチェルバコフ(*3)はいったん飲み始めると自制できなくなった。シチェルバコフは、アルコール依存症になり、それが原因で1945年5月に死亡する。ジターノフもアルコール依存症になって苦しんだ。ブルガーニン(*4)も事実上の依存症患者だった。マレンコフはますます太った。」(P288)
「スターリン政府の中核を構成していたのは、嘔吐を繰り返す酔っ払いの群れだった。『帝国の政治は文字通りスターリンの食卓で決まった。』とモロトフは書いている。ジラス(*5)によれば、ソヴィエト国家の指導体制は『家父長的な家族制度に似ていた。気まぐれな家長の様々な欠点が家族を恐怖に陥れた。ソヴィエト国家の政策の最重要部分は、スターリンの食卓で決まった。広大なロシアの運命、新たに獲得されたソヴィエト領土の運命、そして、人類の運命までがスターリンの食卓で決定されたのである。』 食卓では冗談も交わされたが、話題は文学の話から『もっとも重大な政治的問題 』に及んだ。政治局員たちは、それぞれ自分が支配する部門の情報を交換し合った。しかし、晩餐会の打ち解けた雰囲気は表面的な幻想に過ぎなかった。事情を知らない訪問客は、スターリンとその他の政治局員とが対等の関係にあると思ったかもしれないが、違いは歴然として存在していた。」(P293)
「 重臣達は、動物学者が動物を観察するように、スターリンの気分の動きを研究していた。スターリンの歓心を買って生き延びることが重要だった。その鍵は過敏なほどの自尊心と世界史上でも稀な傲慢さ、そして、愛されたいという切望と無慈悲な残酷さが同居するスターリン独特の心理状況を理解することにあった。ともかく、スターリンを不安に陥れないことが肝要だった。いくつかの基本的ルールがあった。休暇でキャンプに出かけた旅行者が、運悪く猛獣に遭遇した時どう行動すべきかを助言するルールに似ていた。第一はスターリンの眼をまっすぐに見ることだった。さもなければ、『今日はなぜ眼を逸らすのだ?』と疑念を招くことになる。ただし、あまりにしげしげと覗き込むのも危険だった。スターリンに会う時にはマレンコフがしていたように、メモを取ることで敬意を表すのはいいが、度を越すのは禁物だった。あるポーランドの指導者の一人は、スターリンを崇拝するあまり、あった時にはいつも会話の内容をメモしていたが、その熱心さが逆にスターリンの神経を刺激した。『彼はいったいどういう男だ? いつも座りこんでは私の眼を覗き込んでいる。まるで何かを探り出そうとしているかのようだ。もしかしたらスパイではないのか?』とか『なぜあの男はいつもメモ帳を持っているのだ?』と、スターリンは不審な顔をすることがあった。訪問者はいつも落ち着いていなければならなかった。訪問者が慌てるとスターリンも警戒した。ある重臣は「決してスターリンを不安に陥れず、自意識を刺激しなかった。」と言う。ただし、ユーモアを失わず自信を持って接する人物は信頼された。スターリンはジューコフを一目置いて庇護し、また積極的に意見を言うフルシチョフを高く評価していた。」(P296)
「 スターリンは臣下達が互いに対立するよう仕向けていた。ベリヤとマレンコフは、ジターノフとヴォズネセンスキー(*6)を毛嫌いしていた。ミコヤンはベリヤを憎んでいた。ブルガーニンはマレンコフが大嫌いだった。そして彼らの自宅はすべて盗聴されていた。( ミコヤンは『私の場合、これまで自宅が盗聴されなかったことは一度もない。』と答えている。またベリヤの場合、自宅で故意に政策批判を口にしたと言われている。さもなければ、かえってスターリンの疑惑を招くと思ったからである。)」(P297)「どんな些細 (ささい)なことでも、あらゆる問題をスターリンに相談する必要があった。ただし、スターリンは決断を急がされることを嫌った。決断を求められる煩わしさが神経に障ったのである。スターリンの休暇中には判断を求めないのが一番安全なやり方だった。ブルガーニンはスターリンを煩わせないという戦略を使っていつの間にか出世を果たした。判断に迷った場合だけ、スターリンの明敏さに訴えたのである。何よりも重要なルールは、スターリンに対して隠し事をしないことだった。スターリンの前に身を投げ出してすべてを正直に告白することによって、ジターノフはレニングラードでの失敗の危機を乗り越え、フルシチョフは若気の至りでトロッキズムを支持した罪を許された。部下の弱点を見抜くスターリンの眼力は鷹のように鋭かった。」(P299)
フルシチョフによれば、「スターリンが食卓で友人達を扱うやり方は、頑固な犯罪者を締め上げる優秀な尋問官よりも厳しいことがあった」。部下 ( ミコヤン ) が異議を唱えると、スターリンは即座に怒りに燃えて怒鳴った。「君たちは全員、耄碌 (もうろく)している。全員の首をすげ替えてやる!」 午前五時、スターリンが、やっと同志達を解放する時間である。疲労困憊(ひろうこんぱい)した重臣達は泥酔のあまりほとんど身体を動かすこともできない。警護隊が車を玄関に回し、運転手たちが受け持ちの客を引きずって車に乗せる。帰りの車の中で、フルシチョフとブルガーニンは仰向けにひっくり返り、今日一日を生き延びた喜びに浸った。(ある晩餐会の終わった帰りの車の中で)「わかったものじゃない。この車はどこに向かっているのか。家か、それとも監獄か?」とブルガーニンはフルシチョフに囁 (ささやい) たといいます。(P304)
注:(*1)ジターノフ:アンドレイ・ジターノフ/政治局員、レニングラード党書記長、中央委員会書記。(*2)ポスクリョーブィシェフ:アレクサンドル・ポスクリョーブィシェフ/スターリンの「官房長官」、元看護婦。(*3)シチェルバコフ:アレクサンドル・シチェルバコフ/41年の政治局員候補。(*4)ブルガーニン:ニコライ・ブルガーリン/チェキスト、モスクワ市長、政治局員、国防相。(*5)ジラス:ミロヴァン・ジラフ/ユーゴスラビア共産党政治家、ユーゴスラビア副大統領。(*6)ヴォズネセンスキー:ニコライ・ヴォズネセンスキー/レニングラード出身の経済専門家、政治局員、副首相、首相、スターリンの後継者候補。
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