日本の未来の大問題

         最近、丹羽 宇一郎さんの本を集中的に読んでますが、その中で比較的新しい書籍を紹介します。「日本の未来の大問題」です。日本の近未来の問題を指摘し、どう解決すべきかを解説した書籍をこのブログでもたびたび紹介しましたが(例えば、デビット・アトキンソン氏の「新生産立国論」「日本人の勝算」、吉川 洋氏の「人口と日本経済 長寿、イノベーション、経済成長」)、丹羽さんは、上記の書籍とは少し違う独自の視点から問題点を指摘し解決方法を提案されています。読めばわかるのですが、いかにも日本の代表商社のトップを経験された視点が活きている感じがします。

  まず結論から先にお話ししますと、丹羽さんが提言する  " モノづくり "  日本がこれから伸ばすべき産業について、丹羽さんは「日本は『ロボット大国』を目指すべきだ。」と提言しています。( 丹羽さんのイメージしているのは、技術の統合を図って全産業を統一するようなスタイルのロボットで、人間に代わる「綜合ロボット」だと言います。P233 ) なぜなら日本はもともと産業用ロボットにしても人型ロボットにしても、これまで世界の最先端を走ってきた実績があるからです。(ちなみに、日本で有名な産業用ロボットメーカーとしては、パナソニック、安川電機、三菱電機、不二越、ファナック、、、などがあります。そして、それらのメーカーは1970年代、80年代から着実に実績を伸ばしているのです。)また、「 国際ロボット連盟(IFR)によると、世界における産業用ロボットの稼働台数に占める日本での稼働台数は約18%を占めて世界第一位であり、また、インターネット や AI の進展によって、これから「ロボット」の進化が急速化し、ロボットの歴史においても大転換期が訪れるだからだ、」といいます。(P226)「仮に、日本が、この「ロボット大国」を達成できれば、今、日本で問題になっている「少子高齢化」の問題もクリアでき、日本が再び世界を席巻する千載一遇のビックチャンスになり得る。これは日本再生の本道の目玉とすべきで、国を挙げて総力を投入する覚悟と情熱を持ないといけません。」(P202)

   日本が本気で「ロボット大国」を目指すならば、「これからの日本をどうするのか」という明確な将来のビジョンを持つことが必要になります。たとえば、2050年頃、地球環境はどうなっているか? ロボットを使ってどのような社会を創りたいのか? また、そのころの日本の労働人口はどのくらいで、どのくらいの産業規模をめざすのか? そのためにはどのようなロボットを必要とし、どの程度のロボット化を進めるのか? それに合わせ人間はどのように教育していくのか?、、、「 将来的には、ロボット産業におけるライバル国は、G7、G10といった国々が競争相手になると予想されます。また、2050年には、世界経済の半分をアジアが占めると言われており、いろいろな基幹産業がアジアに集中することが予想されるので、当然、ロボットの需要もアジアに集中することが考えられます。その中で日本がロボット大国を実現すれば、日本はアジアの主導的な地位を占めることができるはずです。」(P227)「将来は現在の自動車台数に匹敵するほどのロボットが必要になるかもしれません。ロボット産業は、膨大な製造工場が必要なだけでなく、点検、整備、修理、リサイクル、保険等、、派生産業にとっても大きな市場をもたらすことになるのです。」

  このように、「ロボット大国化」に成功すれば、これから減少が予想される 4,000万人におよぶ労働人口減による極端な労働人口のニーズも一挙に解決でき、また、(ロボット産業は裾野が大変広い産業になるので、)日本の技術力を支え、日本の高度経済成長をひっぱってきた中小企業も、これまでの強みを持続しながら成長することができるのです。

  、、とここまでは「ロボット大国、日本」の良い面を述べてきましたが、もし日本がロボット大国を本気で目指す場合、その「ロボット大国化」を阻む問題を解決することが必要になります。「 例えば、最近の日本の科学技術は、インターネットや AI といった先端技術においても、世界に相当な後れを取り、iPS細胞などわずかな例外を除いて世界を変えるようなイノベーションの兆しが見当たりません。この問題に限らず、社会構造や経済構造がグローバライゼーションと共に変化する中で、日本はその思考回路、行動様式を変えていかなければ文字通り生き残っていくことができないのです。」

  では、日本の思考回路、行動様式の問題とはどのような問題で、それらの問題はどのように解決することができるのでしょうか?

  丹羽さんは「日本が変われないのは、結局はやはり、この国を支配する指導部がいっこうに変わらないからではないか。そして支配しているのは、おしなべて年寄りではないか。私はそう考えるに至りました。」(P35)と言います。「政・官・財・マスコミ、至るところに年寄りが田舎の名主のように死ぬまで居座って、やたらと人事権を行使しています。そのことが日本社会が時代に即して変わっていくことの巨大な障害となっています。老害の意識もない。裸の王様の御老体の自覚もない。外から見ても恥ずかしい限りです。たとえば政界は定年がなく、2017年10月現在、65歳以上の衆議院議員は百人で全体の22%、参議院は63人で26%に達しています。」(P36)「権力は年月とともに腐敗するのは万国共通の真理です。いくつになっても国家を仕切ることができる権力者の政治体制など、乱暴に言えば、まるで独裁国家と同じです。」(P37)丹羽さんはこの老害の解決のポイントとして「権限の委譲に関しては、人が一人前になるまで待たず、未熟なうちからまかせ、本人に努力させよ」といい、「国会議員の試験制の導入」を提案し、本書の中で、法隆寺の宮大工の西岡常一棟梁のエピソードを紹介しています。「そもそも自分たちがこの世にいない三十年後、四十年後に実現するかどうかわからないチャレンジングな事業にどれほど関心が持てるでしょうか?」 丹羽さんはまた、経済産業省の若い職員が、現在の社会保障制度の改善を提言した報告書「不安な個人、立ちすくむ国家」を紹介。報告書は現役世代向けの政府支出が高齢者向けの5分の1以下にとどまっており、「既得権益や固定観念が改革を阻んでいる」と分析していることに触れています。(P66)( 日本では、儒教の影響からか年上の批判というのはタブー視される傾向が強いですが、丹羽さんは、伊藤忠商事でも「クリーン・オネスト・ブーティフル」を提言されたり、過去から巨大な損失問題を経験されたりで、やはり客観的に物事の本質を言える方なんだと感心します。普通、日本の大企業の生え抜きでトップまで経験された方が言えるものではないと思いますが。)

  さらに、丹羽さんは、「日本の政治、行政、教育、企業経営から技術開発など、あらゆる局面で行き詰まりに直面している根本的な要因の一つは、日本全体の組織が『ポジティブ・リスト』の考えで動いているからだ。」と言います。この「ポジティブ・リスト」というのは、「原則として禁止されている中で、例外として許されるのもを列挙した一覧表」のことで、「条件を満たさない場合は全面的に禁止する」という考え方です。 そして、この反対にあるのが「ネガティブ・リスト」という考え方です。これは「原則として自由の状態の中で、例外的に禁止・規制するものを列挙した一覧表」であり、「これに基づき行動する方法論」を指します。要するに、ポジティブ・リストは「許可したもの以外はすべて禁止」、ネガティブ・リストは「禁止したもの以外はすべて許可」ということになります。丹羽さんはここで、2016年にマスコミでも取り上げられたPKOの「駆け付け警護」問題(襲撃された国連職員らの救援のため武器を持って駆け付ける制度)を取り上げ、「 他国軍のルールは『ウサギは売ってはダメ』とだけある。日本の自衛隊は『熊は撃ってよい』『イノシシは撃ってよい』・・では鹿が出てきたらどうするか。撃てば違法行為になる。場合によっては政治家も交えて喧々諤々(けんけんがくがく)検討することになる。現場は後手に回って、自衛隊の生命と安全が脅かされる。。」(「毎日新聞」2016年12月2日朝刊)という記事を紹介しています。「このようにポジティブ・リストの考え方は、前例がないような変化の激しい現場や状況では、組織にとって命取りになりかねません。(日本の)あらゆる組織にこのポジティブ・リストの考え方が浸透し、新たなアイデアや技術の生成を阻んでいます。変転目まぐるしいグローバリズムの時代、日本はこのままでは世界に通用しない国になってしまいます。」(P102)「そしてこの懸念が如実に表れているのが、科学技術の分野で、半導体や携帯電話などのエレクトロニクス産業の分野での国際競争力の低下であり、それは日本のハイテク企業からイノベーションが起きなくなったことを意味します。このことは最近の各分野で提出される論文の質や量、国別の特許権の出願件数を他の国と比べても相対的に低くなっており、スーパーコンピューターの開発競争でも日本は苦戦を強いられているのです。」

  これに対して、個人の自由を最上位の理念に置くアメリカのシリコン・バレーは、「日本と対照的で、ネガティブ・リストの発想で『これだけはしてはならない』という禁止条項以外は自由に研究・開発が可能です。」(P108) 「 日本からシリコン・バレーに行った研究者は許可されたこと以外は口出しできず、周りが『これをやろう』『あれはどうか』と自由に発言する中で、ジッーと聞いているだけ。シリコン・バレーの研究者からすれば、『彼らは我々の技術を盗みにきたのか?』となるそうです。このような理由もあってか、近年日本の若手研究者・技術者が自由な環境を求めてシリコン・バレーにわたり、あるものはベンチャーを立ち上げることが多くなり、結果として、有能であればあるほど、その頭脳と技術が社外、海外に流出することになり、その頭脳の多くは日本に帰ってくることがないのです。こういった研究開発に関することにもネガティブ・リスト的な考えを導入する余地は大いにあるでしょう。」 日本のお役所や大組織でよく問題にされる「縦割り主義(セクショナリズム)」にしても、ポジティブ・リストの発想が横たわっていて、この縦割り主義の為、省庁同士の交流が少なくなり、同じような仕事をやったり、無駄が多くなっています。しかし、これをネガティブ・リスト(禁止したもの以外はすべて許可)の考えに転換すると、途端に省庁の垣根を越えて予算の奪い合いが生じてしまうことになります。

  「日本が抱える問題の底流には、実は、共通した構造が横たわっていて、それは、官僚組織をはじめ社会にポジティブ・リストの発想が行き渡っているため、『権限と責任』の所在が実に曖昧模糊としていることです。ポジティブ・リストの発想では上から『これはやっていい』と許されたことしかやれない、いや、やらなくていいことになります。権限がない分、責任を負うことからも逃れることができます。」 丹羽さんは、この権限と責任がうやむやになっている事例として、高速増殖炉「もんじゅ」計画の問題を挙げています。「国はこれまで20年間に一兆円もの資金を投じてきた『もんじゅ』に、さらに費用をかけ廃炉にし、さらにはフランスが進めようとしている不確かな実証炉『ASTRID』に投資をする計画を立てています。これら一連の判断においても『これまで、誰が、いつ、どこで、どのようなプロセスと根拠に基づいて、いかなる決定をしたのか。失敗した場合の責任の所在』などまったくもって判然としない。」(P140) また、このような問題は他にもいろいろある、として、最近の「豊洲移転問題」を取り上げています。「日本人はこれまで、意見の対立を避け、相互に忖度し合い、妥協しあう。そうして誰の責任か不明のまま一見平穏に過ごしてきたが、その結果として上記のような問題が今、表に現れてきている。日本はある意味で、二千年来の精神文化を変えなければいけないところまで迫られてるのです。」(P145) この解決策として、丹羽さんは日本人は「ぬるま湯」から抜け出し、常に自らとは異なる発想や考え方を、異なる文化、異なる人々からフレキシブルに取り込んでいく姿勢が必要で、そのためには、日本の長所である「世界に誇るべき、教育を受けた人材」を生かすことが日本再生へのただ一つの道だ、と主張します。「日本の中間層の教育は非常に進んでいます。中間層に広く行き渡った『教育の力』こそ日本の光です。その教育の力、中間層の力をどう活用して、社会の仕組み、国や企業のガバナンスを変えていくか。ここにこそ日本の将来への本道があると断言できます。」(P191)

  丹羽さんは、以前紹介した本の中にも書いてありますが、大変な勉強家なので、この「ロボット大国」という発想もご自身の研究成果として提言されていると思いますが、その中に「GSIS(Global Strategic Integrated System)」という概念(これは、以前、丹羽さんが伊藤忠商事社長の頃、提唱された「SIS (Strategic Integrated System)」を発展させた考え)を組み込んでいるあたり、商社の活躍の場もちゃんと考えていて、その辺は現代における(三方よしの)「近江商人」的資質が見えてたりで感心しました。

  本書に限らず、丹羽さんの本はずべてお人柄のせいか、会社、仕事に関すること、社会問題に関することをテーマにしたものでも、読む人の頭の中にストレートに入ってくるものばかりです。(下写真「会社は誰のために」は、当時、日本経済団体連合会/会長に就任されたばかりのキャノン株式会社会長、御手洗 冨士夫氏との共著。2006年当時のお互いの会社のことから組織、改革、これからの日本について意見を交換しています。「価格競争の時代は終わった。」「これからは世界がびっくりするような高付加価値製品をつくるべき。」とか、今よく新聞などで言われていることを、お二人が、すでに本書で提言されている(2006年出版)のにはびっくりしました。「人は仕事で磨かれる」は、丹羽さんの生い立ち、青春時代、仕事論、経営理念等紹介してます。丹羽さんが普通人の感覚を持った経営者であったことがわかります。「社長の覚悟が会社を変える」では、丹羽さんが社長の任期中に成し遂げた四千億円もの不良債権の一括処理等、当時の問題解決について取材したものです。意外だったのは、丹羽さんが社長に指名された時の伊藤忠商事の社長指名選において、丹羽さんは五番目候補であり、本命候補ではなかったそうです。外(マスコミ)からみた客観的な丹羽さんがわかります。)

Hisanari Bunko

読書評ブログ