モルガン家 金融帝国の盛衰(上)

  以前、本ブログで紹介した 「タイタン ロックフェラー帝国を創った男」(上、下巻)の著者、ロン・チャーナウ氏が「タイタン」の前に書き上げた作品です。モルガン財閥は、御存知のように、1900年代初めのアメリカにおいて有名な財閥の一つですが、モルガン財閥の興したモルガン商会は、非法人組織の個人銀行から出発したこともあり、そのため、関係資料をしっかり保存することもなく、また、昔の銀行家たちにおいて守られてきた《紳士銀行家行動規範》(*1)という規範においてそのベールが隠され続け、長く謎に満ちた存在でした。「1989 年まで、J.P.モルガン銀行は、アメリカの金融界に君臨してきた。ウォール・ストリート23番地に構えた社屋は、看板も何もない、街路に斜めに玄関のついた低層の建物で、見るからに貴族的で超然たる雰囲気があった。」と、著者は本書のプロローグにおいて書いています。

  実は、「モルガン財閥」の全体像に光が当たったのはごく最近のことで、本書の発行まで1913 年 以降のモルガン商会の歴史というのは、モルガン財閥が盲目的に秘密主義に固執してきたため、謎に満ちた部分が多かったのです。「私は、本書でこの異常な脱落部分の埋め合わせを考えた。したがって、本書では、モルガンの十九世紀の歴史に新しい調査のメスを入れ、モルガンの二十世紀の歴史にも力を入れて書いた。本書にまとめられた内容は、初めて世に問う、包括的なモルガン帝国の歴史である。」(下巻、P578)と語っています、そして、モルガン(現在は、J.P.モルガン社、モルガン・スタンレー、モルガン・グレンフェルの三つに枝分かれしている)の歴史は「アメリカと英国両国の金融界そのものの歴史だと言ってもおかしくない。これまで百五十年の間、ウォール街やシティ(英国)で恐慌、好況、暴落が起きるたびにこの3行はいつもその中心にあった。(中略)近代の金融帝国のなかで、モルガン財閥ほど着実に卓越した地位を守り抜いてきたところは他にない。その歴史は、両国の金融界を忠実に映し出しており、それを見れば大口金融の様式、金融界の倫理、慣例の変遷を学ぶことができる。」(上巻、P20)

  「 1935 年以前のモルガン財閥は、史上最も恐るべき力を持った総合金融機関であった。モルガン財閥は、アメリカの銀行家ジョージ・ピーボディがロンドンで1838 年に創業し、のちにこれをモルガン一族が引き継いでニューヨークへ移し、そこで一躍有名にした。J.P.モルガン一世(1837-1913) と 二世 (1867-1943) の父子は、その崇拝者からすれば、言ったことを必ず守る堅実な昔気質の銀行家だったが、けなす人々の目には、お金儲けのためには弱い社会をおどし、外国勢力と結託し、アメリカを戦争に引き入れる、偽善的な暴君と映った。」(P12) 

       まず、モルガン商会についてですが、「モルガンの名前は知っていても、その商売の実体をよく知らない、という人は多い。モルガン系各社の銀行業務は、預金や消費者ローンなどを中心とする小口金融とは無縁で、各国政府、大企業、大金持ち相手の大口金融という欧州古来の伝統的業務が専門である。常に巨額の融資を行う金融業者として、モルガン系各社は慎重周到なやり方を編み出した。具体的には、支店を設けず、看板をめったに掲げず、(ごく最近まで)広告すらださなかった。まるでモルガンの口座が貴族階級入りの会員証であるかのように、顧客に特定クラブの一員として受け入れられたと思わせるのが、その戦略であった。(中略)(こうしたモルガン商会の伝統的なやり方は、現在、その真の継承者であるJ.P.モルガン社が引き継いでます。) J.P.モルガン側ははっきりした数字を明らかにしたがらないが、受け入れる個人勘定は少なくとも五百万ドル程度で、好意的に二百万ドルまで下げる例もたまにあった。個人勘定はモルガンの声価を高めはするが、それが生み出す利益はほんのわずかで、業務の主力は、優良企業や各国政府を相手に大規模な融資を行ない、証券発行引受けを取りまとめ、外国為替を取引することなどである。同行によれば、かつてアメリカの上位企業百社のうち九十六社までが取引先だったが、残る四社のうち二社は、取引先としてふさわしくなかったので断った、という。個人顧客についていうと、こちらから無理に取引きを求めるような態度をとるのを好まず、そのためあちこちに支店を設けたりせず、いくら遠くとも顧客の方から銀行まで出向かせた。これは海外でも例外ではなく、競争がはるかに激化した今日でもJ.P.モルガンの店舗が一国に一つ以上あるところはめったにない。(*2)」(P16)

  また、モルガン財閥は数ある銀行の中でも一番の大御所として、アスター、グゲンハイム、デュポン、バンダビルトら著名一族を顧客とし、また、大企業では、USスチール、ゼネラル・エレクトリック(GE)、ゼネラル・モーターズ(GM)、デュポン、AT&T などの超一流顧客を相手に融資を行い、また同時に、これら各社の(経営や融資に関わる)相談にも乗り出したので、自らの影響力をそういった大企業にまで、不当に行使するのではないかという憶測も生み出しました。当時の新興国、アメリカにとって「初期のモルガン財閥は、中央銀行と民間銀行とを兼ねた存在みたいなもので、金融パニックを阻止し、金本位体制を守り、ニューヨーク市を三度も破産から救い、金融紛争を調停するほどの力があった。」のです。そして、モルガン財閥が謎に包まれた存在と見られがちだったのは、政府との結びがあったからでした。「ロスチャイルド家などと同様にモルガン財閥も、多数の国々、特にアメリカ、英国、フランス、イタリア、ベルギー、日本などの権力機構に巧みに取り入っていたようだ。昔のモルガン財閥のパートナーたちは、いわば金融面での外交官みたいなものであって、その日常業務が国家の問題と密接に絡み合う場合が少なくなかった。」(P13)

  著者/ロン・チャ―ナウは、そのモルガン財閥の歴史ついて「その歴史は、両国の金融界を忠実に映し出しており、それを見れば大口金融の様式、金融界の倫理、慣例の変遷を学ぶことができる。」(P20)として、本書「モルガン家」(上、下)におけるモルガン財閥の全物語を、「金融王の時代」(1838 - 1913年)、「ドル外交の時代」(1913 - 1948年)、「カジノ経済の時代」(1948 ‐ 1989年)と三つの時代にわけて紹介しています。

  次にこのモルガン財閥の起こりについて。1835 年、メリーランド州、ボルチモアの商人・ジョージ・ピーボティが船でロンドンへ渡ります。当時の、アメリカは国を挙げて鉄道、運河、高速道路の建設に狂弄していて、その資金は各州の発行する州債でまかなわれました。(当時の世界の金融機関の中心はロンドンだったので、アメリカの州債の発行もロンドンで行われていました。)しかし、そういった州のインフラ整備のために発行された州債の多くが債務不履行に陥っており、ピーボティは、その州債の繰り延べ交渉を任された州の3人のうちの一人でした。ピーボティの他の2名は交渉の余地なしとみて早々にアメリカへ帰国するのですが、当時四十歳のピーボティ―は、豪華な夕食会を開いて、英国の債権者たちへ旧債を確実に返済できるようにするためには新規融資をしていただく以外にはない、と主張します。結果として、債権者たちから新たに八百万ドルの追加融資を引き出すのに成功します。これに気をよくしたピーボティは、1837 年、ロンドンに移り住みます。

  ピーボティという人は、話し上手でしたが、人好きのする容姿ではありませんでした。「マサチューセッツ州ダンバース出身で学校には二、三年しか通わなかった彼は十代で父親も亡くしていた。(中略)二重あごに団子鼻のしわくちゃな顔にもみあげを伸ばし、重たいまぶたの目をしていた。このような野暮ったい男が ー 後年、優れた容姿と上品な服装で包んだ、上流社会出身のパートナーたちで経営される、格式高い銀行として知られるようになる ー モルガン財閥の創業者になろうとは皮肉である。彼には、貧しかった若かりし頃を蛮勇をもって克服した人々にありがちな高慢なところがあったが、反面、情緒不安定で、いつも世間と反目して被害を妄想するたちだった。」(P27)このような、家庭環境や教育環境に恵まれなかったような彼がどのようにマーチャント・バンカー(*3)として成功したのでしょか。それは当時のアメリカの金融市場の流れを見極め、市場のブルーオーシャンを開拓したことにあります。当時のアメリカは国内開発の資金調達を英国資本に頼り切っていました。そのため、アメリカで州債発行が必要になるたびに、ロンドンの大手の銀行は代表者をアメリカに派遣し、州債発行の準備をしなければならなかったのですが、ピーボティは、彼自身がアメリカの州債をロンドンで取り扱う大手業者になることによりその流れを逆にしたのです。60代になった、ピーボティは、慈善活動に熱中するようになり、彼は自分の店で三年ほど働いたアメリカ人でジュニア・パートナーであったジューニアス・スペンサー・モルガンに自分の店、ピーボティ商会の後継者として指名します。1864年にピーボディの事業を完全に譲渡されたジューニアスは、会社名をジューニアス・スペンサー・モルガン・アンド・カンパニーとして、ここにモルガン商会が誕生します。(そして、その息子、 ジョン・ピアポント・モルガンがその事業を引き継ぐに及び、徐々にモルガン財閥が隆盛していくのです。)

  「金融王の時代」は、アメリカでは、鉄道、船舶(*4)や重工業など新しい事業の勃興期と一致し、どんな大富豪や金持ち一族でも応じきれないほど資金需要が膨れあがっていきます。この時代の新しい事業の勃興に対し、金融市場の余力は限られていて、各銀行は乏しい資金の分配に追われていました。「当時は証券発行や目論見書を規制する政府機関がなかったから、まだ未知数の新会社が健全な内容か否かを投資家に納得させるのは銀行しかなく、それだけに銀行が新しい各事業を動かす中心となった。そして、各会社は銀行と一心同体と見なされるようになり、たとえば、ニューヨーク・セントラル鉄道などはのちにモルガン銀行と呼ばれた。(中略)新興各社はダイナミックな活動とは逆にその経営は非常に不安定だった。猛烈な成長の中で無節操な事業屋、山師、相場師の手中に陥る企業が多かった。夢を追う企業家でも、自分の着想を実際の事業に変えるに必要な経営技術に欠けていたし、中核となる管理職などまだ存在していなかった。そのため、銀行家は企業の有価証券を引き受けるだけでなく、企業が債務不履行に陥れば、結局その経営を引き受ける例がよくあった。この時代には金融と企業との間を画す一線があいまいになり、ついに産業界の大部分が銀行の支配下に入る結果となった。」(P54)

  この強大な影響力を背景に、大手銀行は高慢な態度を取り始め、金融王のように振る舞い、得意先が逆に銀行のご機嫌を窺うようになります。そして、銀行はのちに《紳士銀行家行動規範》と呼ばれる一定の慣例に従い行動するようになります。「この規範に基づき、各銀行は進んで投資先を見つけ出したり、新しい取引先を求めたりせず、顧客の方が然るべき筋から紹介されて来るのを待った。また、支店を設けなかったし、それ以前の取引銀行の承諾のないかぎり新しい会社を引き受けなかった。これは公然とではないが銀行間の競争を避けるためだった。そのために船団広告もしなければ、他行の得意先を横取りすることもなかった。こういう暗黙の取り決めは、既成銀行に有利なように働き、得意先は常にみじめな従属的な立場に置かれた。これは競争を避ける銀行家のカルテルではなく、いわば、相争う剣を一応さやに収めた、一種の様式化された競争形式であった。その表面穏やかなところに幻惑されて、底にひそむ銀行家の敵意に満ちた醜い関係に気づかない人が多かった。」(P55)そして、このような銀行の企業に対する支配権の増大により、なかには、巨万の富を蓄え、好き勝手なことをなす銀行家たちも出現し、一般大衆の間に恐怖心を引き起こすようになります。そして、ついには異常に肥大した彼らの影響力を政治的に抑え込む動きがでてくるようになり、金融業者側も政府にしばしば徹底的に敵対するようになります。

  この時代の、モルガンのアメリカ金融界への影響力を示す例の一つが、1907年10月の恐慌です。この金融危機の直接の原因は信託会社が法律の抜け穴を大いに利用して、危険度の高い事業や株式に資金を運用したことによるものですが、ピアポントはこの恐慌発生から二週間足らずのうちに、信託会社数社と大手証券ブローカー一社を救ったのに加え、ニューヨーク市を危機から脱出させ証券会社を守ったのです。(しかし、この金融危機により露呈した金融制度の欠陥 - つまり、人々がお金を退蔵し、銀行が貸し出しを回収する事態になると(中央銀行がないので)信用を維持したり、信用の収縮を穴埋めすることができず、こうした通貨供給量の急減は厳しい不況を招く原因にもなった - の対処方法として、アメリカの金融制度はこれ以後、モルガンのような財界の大物に救済を任せるのではなく、国の中央銀行制度(今日の連邦準備制度)によりが管理していく、という素地が生まれたのでした。)

  1914年7月勃発した第一次世界大戦は、アメリカが英国から金融主導権を奪い取り、一大債権国として台頭し、国際金融に歴史的転換点が訪れたことを世界へ示しました。戦地となったヨーロッパへアメリカから資材や物資を送ったり、連合国軍各国の戦時債権を引き受けることなどで、世界の資本はロンドンからアメリカへ流入するようになったのです。この頃から「ドル外交の時代」(1913 - 1948年)が始まります。

  「金融王の時代」が、金融業者たちにとって一種の「自由放任の時代」だったとすれば、次の「ドル外交の時代」では、こういった金融権力と政府権力が明白に融合し、モルガン財閥においても、ニューヨークとロンドンのモルガン系諸銀行と各国政府が密接に結託した取引を行う関係となり、その存在が、アメリカ、英国の国家政策のさまざまな側面から引き離して考えるのが難しくなっていった時代でした。(この時期、モルガン財閥においては、J.P.モルガン二世が活躍します。)「二つの世界大戦にはさまれたこの時代に、モルガン系の銀行家たちは背後から各国を動かすパワー・ブローカー役を演じ、国際会議で非公式の政府代表役を務めたほか、彼らは各国の国王、大統領、歴代のローマ教皇らの意をひそかに体して、アメリカないし、英国の政府の緊密な指揮下で対外折衝に活躍した。外部世界に対して、モルガン系の銀行家たちの顔が政府の方針をはっきり反映している(ように見えた)例がよくあった。」(P21) そして、アメリカ国内では経済成長と共に各企業は、銀行の強力な庇護を次第に必要としなくなったのですが、銀行は、なおも 昔ながらの  “ 伝統的銀行家 ” として君臨しようとし続けます。

  この時期のモルガンのエピソードを一つ紹介します。第一次世界大戦後のヨーロッパ経済の再建に関してもモルガンはその存在感を金融面で現します。実はオーストリア復興用の総額二千五百万ドルに及ぶ借款はクーン・ローブと共にJ.P.モルガンが共同主幹事となったもので、返済は金貨払いで、オーストリアの税関とタバコ専売の収入を担保としたものでした。また、ドイツは1922年ごろから第一次大戦の賠償金支払いの軽減を求めていたのですが、その申し出に同情的な英国に対し、フランスは自国が広く戦禍を受けたことを理由にその減額を許しませんでした。「賠償金支払いを滞らせる最も効果的な方法として、ドイツ人は通貨供給量をどんどん拡大し、予算を大幅赤字にし、マルクの価値を下げ賠償金支払い額を実質的に切り下げられるようにした。これに対し、ドイツの政策が賠償金支払いを駄目にしたとして、連合国側はこれを背信行為と考え、1923年フランスとベルギーがドイツの重工業地帯ルール地方を占領した。(中略)この結果、英国とアメリカの両国がドイツの存続を図ろうとして大々的に乗り出し、モルガン財閥が中心的役割を演ずることになった。前の世代の銀行家たちであったなら、西側世界の運命に心を痛めることはなかったであろう。」(P396)

(モルガン家(上巻)は、「ドル外交の時代」の途中までの物語が書き綴られています。)

(*1)これは ①進んで取引先を開拓しない、②支店を設け宣伝広告するのを避ける、③仲間同士の銀行間で顧客を横取りしない、などを互いに了解した、銀行間の競争を避ける巧みな慣行だった。(下巻、P584)(*2)これに限らず本書にかれたすべての事実は本書出版時の1993年当時のものです。(*3)マーチャント・バンク:商品をあきなう一方、為替手形の引き受けなど商品貿易の金融も手掛けたために生まれた名前。普通の銀行の行う、銀行通帳、出納係窓口、当座預金といった業務とはかけ離れた一種の大口金融を商売にした。取引相手は各国政府、大企業、富豪などに限られていた。(*4)モルガンは、あの悲劇の沈没船タイタニックをつくったホワイト・スター・ライン社への融資にも関わっています。