モルガン家 金融帝国の盛衰(下)

  「モルガン家 金融帝国の盛衰」(下巻)は、「ドル外交の時代」(1913-1948年)の1933 年に制定されたグラス・スティーガル法の成立から始まります。グラス・スティーガル法というのは民主党上院議員のカーター・グラス氏と、同党下院議員のヘンリー・B・スティーガル氏がそれぞれ提出した法案を合わせたもので、この法律には、当時の銀行が行っていた、商業銀行業務と投資銀行業務の兼務の分離の規定があります。「当時の銀行は、信用貸出をおこなう金融機関が同時にみずから信用投資をおこなっていたことに特徴があり、これは銀行と顧客の利害対立を内包していた(利益相反関係)。」(Wikipediaより)(どうして商業銀行と投資銀行の分離が必要だったかと言うと、仮に、銀行がある会社の株式を投資目的で大量に購入し、その会社の株価を維持するために、この会社のライバル会社からの融資申し出の際、ライバル会社の経営情報を投資先会社へ漏らしたり、または、そのライバル会社の融資を断った場合、銀行としての公共性は大きく損なわれることになりますね。)

  実は、このグラス・スティーガル法制定時に、当時のウォール街の数ある銀行の中で、モルガン商会ほど、預金銀行か投資銀行かの選択に悩んだところは他にありませんでした。(P19)この決定のため 1935 年 8 月、当時のモルガンのパートナー、トム・ラモントは メイン州沿岸の小島にある別荘にJ.P.モルガンの主だった人間を集めて秘密会議を行いました。ここで  J.P.モルガンは預金銀行にとどまる一方、モルガン・スタンレーと呼ぶ投資銀行新たにつくり、預金業務と投資業務の分離独立という最終決定が下されたのです。では、当時有価証券引き受け業者の雄とみなされていたモルガン商会が、どうして投資銀行ではなく商業銀行の道を選んだのでしょうか? (残念ながら、上記の秘密会議における議事録はいっさい残っていません。)

  「モルガンの選択に強く影響を与えたのは、有価証券市場の不振だった。有価証券引受けは、同商会の最も利益に上がらない部門となっていたうえに、新しい証券関係規律の成立で、引受業が大きな義務を負わされる恐れがあった。」(P22) 「わが商会の業績が良いのは。。。おそらく。。セールスマンを置かず、引受け業務の経費が非常に少なくて済むうえに、商業銀行という良い決まった仕事があるからでしょう。」(J.P.モルガンのパートナー、ラッセル・レフィングウェルから当時の大統領ルーズベルトにあてた手紙の抜粋。)また、人事問題も大きな理由の一つでした。「1935 年当時、アメリカ全体の失業率は約20%に達していたが、モルガンが人手の少なくて済む投資銀行へ進むとすれば、大規模な人員整理を招き、伝統的な家族主義経営をはなはだしく裏切ることになる。モルガン社史はこう述べている。『あの決定を下した時、合名会社 J.P.モルガン商会には四百二十五名ほどの人間が働いていた。当商会が有価証券業務だけにとどまる道を選んでいたらこの人間の大部分がきっと余剰人員となっていただろう。。。四百人ほどが商業銀行業務になどに専念してそのまま残り、二十人ほどが退社してモルガン・スタンレー商会の創設に参加した。』」(P23)  以上のような理由から、1935年、J.P.モルガン商会は商業銀行として残る道を選び、投資銀行業務部門はモルガン・スタンレー商会として分離独立したのです。( そしてその後は(アメリカにある)「J.P.モルガン社」と「モルガン・スタンレー」、そしてロンドンの「モルガン・グレンフィル」と三つの組織にわけられ、それらが事実上、一つのモルガン財閥として機能することになります。)

   次の「カジノ経済の時代 」(1948 ‐ 1989年) では、企業側が資本力をつけてきて、銀行側は第一次大戦前後のような力を発揮できなくなります。銀行側は、以前のような力を企業に対して持つことができなくなり危機感を募らせますが、これはモルガンにとっても例外ではありませんでした。「世界市場の競争がこれといった特徴のないまま激化していく中で、銀行の顧客に対する抑えがきかなくなり、多国籍企業が銀行より抜きん出て、資金と金融専門知識の点で銀行に対抗するようになった。保険会社などの機関投資家も、銀行側の力をそぐもとになった。さらに、各企業や各国政府が様々な通貨や国で独自に資金を調達できるようになったため、力の均衡が銀行側にきわめて不利に傾いてきた。こういうと、十億ドル台の金融取引を報ずる派手な記事が日刊紙の紙面を彩る現代では、むしろ逆説的に聞こえるかもしれないが、金融界の積極経営という新しい行き方は、実際は銀行側の弱体化の兆候なのである。昔からの顧客である各企業が銀行の支配から解放され、離れていくにつれ、紳士然としてお上品に納まっていた投資銀行側は、新しい領域を開拓せざるを得なくなった。銀行家たちはその新領域を企業買収なる冷酷な世界に見つけ出して自分たちを救ったが、逆に経済全体を危機に陥れてしまうことになる。」(P22)

  特に、モルガン・スタンレーは、1970年代以降は、創業当時のやり方をかなぐり捨て、積極経営に転じるようになります。「会社創立の 1935 年から 1970 年代までは、モルガン・スタンレーは、どんな投資銀行も対抗できないほどの優良な顧客に恵まれていた。《セブン・シスターズ》と称された巨大石油企業七社のうち六社、アメリカ十大企業のうち七社までを取引先に持っていた。こうした商売繁盛ぶりが、自然と人々の噂にのぼるほど尊大ではた目にはおかしいうぬぼれた社風を生んだ。(中略)(同社は)取引先企業との独占的な関係をこうるさく要求し、もし取引先が他社に相談などしようものなら、うちではなく他に頼みなさい、と突き放した。ウォール街関係者たちはこれを “黄金の手錠” と呼んで不満をこぼしたものの、司法省も誰も、この手錠を外すことはできなかった。一方、取引先の方も束縛感を抱くどころか、この不思議なモルガンとの関係をむしろ乞い求め、嬉々としてそのとりこになった。」(P17)

  このような古臭い体質から脱却し、1974 年以降、強引な企業買収である「敵対的企業乗っ取り」に参入します。「1983年になると、厳しい競争圧力にさらされたモルガンの M&A部門は、七十五人の専門家が狙い目の企業を鵜の目鷹の目になって探し始めた。直接出かけて訪問し、強引に話を売り込んだ。『昔は相手に電話をかけるのを嫌がって、取引先の方から電話をかけるのを仕向けるのが社風だった』とボブ・グリーン(*1)は言うが、今やモルガン・スタンレーは、 M&A ブームの推進役を次第に果たすようになるのである。証券引受業務が縮小するにつれ、モルガン・スタンレーは、以前ならにべもなく拒否した仕事に目を向け、ついにジャンク・ボンドの地獄に足を踏み入れた。この高リスク高利回りの債権は、信用度に疑問のある会社が行う乗っ取りの資金用に発行されることが多かった。(中略)ジャンク・ボンドは、企業乗っ取り屋が入手できる資金の額を大幅に増やしたことで、ウォール街に革命を起こした。ジャンク・ボンド市場は、乗っ取り屋がウォール街の既成勢力を無視して、債権を直接投資家に売って、自分たちの侵略資金を調達できる状況を生んだ。また、商業銀行が大口貸付先の先細りから乗っ取り資金調達に引き付けられて、潤沢な資金を提供したことも、企業合併熱をあおった。かくしてウォール街の両側面を代表する商業銀行と投資銀行はともに、本業としてきた貸し出し業務と引受業務の根本的危機のからの救いを企業乗っ取りの仕事に見出したのである。」(P471) このように1980年代、モルガン・スタンレーは、“ジャンクポンド”の商品化で、レバレッジド・バイアウト(企業侵略)用資金として二十億ドルもの資金を調達し、その次には自らが乗っ取り屋になり、四十社に及ぶ会社の株式を手に入れます。「(このやり方に対し)ある業界紙が『これがモルガン・スタンレーか?』と書き立てたほどだ。その間ずっと30%という高い自己資本利益率を誇る同社は、株式を公開している投資銀行の中では最も収益率が高いと評価されている。」(上巻、P18)

  J.P.モルガン社、モルガン・スタンレーと共に、現代のモルガン財閥を形成するのは、ロンドンにあるマーチャント・バンク、モルガン・グレンフェルですが、このロンドンにあるモルガンも、戦後間もなくの頃は、伝統の上にあぐらをかいたような年老いた貴族たちが経営を行い、1950 - 1960 年代は、伝統的で古い企業の有価証券発行を引き受けながら順調な、しかし無気力な経営と戦っていました。しかし、徐々にモルガン・スタンレーのように積極的な経営を行い、企業買収を専門とするシティ随一の乗っ取り屋専門となり、従来の名声も巧みに利用しながら行動範囲を拡大します。たとえば、「世界の二大金持ちである、ブルネイのサルタンとエリザベス女王二世の資産を運用し、アメリカの各種年金基金(サンフランシスコ市、カリフォルニア州、フォートワース市)やロックフェラー基金も取り扱い1987年の株価暴落前には同社の資金運用額は二百五十億ドルに達していた。これに比べると、モルガン・スタンレーの運用額百十億ドルも小さく見えた。また、貿易金融や資源開発融資でも群を抜いていた。」(P483)

  しかしながら、同社は致命的な欠陥がありました。それは、長期の戦略や構想の欠如です。「モルガン・スタンレーとは違い、モルガン・グレンフェルは、将来の金融の在り方を描いた青写真や総合的見通しにのっとって事業を進めることはなかった。同社の歴史をみても、会社の方針を戦略的に立て直す計画会議や戦略的後退といったものが全くない。この動きは、部外者の目からすると即興的で、突然訪れた機会に便乗するだけのようであって、このような明確な構想の欠如が、のちに同社の命取りになる。」(P482) そして、1980 年代には、かつて自らが体現していた英国金融の奥ゆかしいイメージを破壊し、ロンドンの企業買収劇の主役となますが、1986年10月の金融ビック・バン(*1)における金融の自由化という時代の波に乗り遅れた同社は、英国のシティにとって今世紀最悪とされた不祥事、ギネス社の株価操作スキャンダル(*2)に巻き込まれたり、インサイダー取引事件などで自らの名誉をけがしてしまいます。1988年12月、同社はM&A部門が好調だったこともあり、当時弱体化していた証券部門を閉鎖し約四百五十人に及ぶトレーダーの大量解雇を行い、1989年3月同社百五十一年の歴史で初めての赤字決算を発表します。損失の大きかった証券業務を切り離した同社は格好の乗っ取り対象となり、ついに1989年11月ドイツ銀行に買収され、ドイチェ・モルガン・グレンフェルとなり、1999年に社名からモルガンの名が消え、ドイツ銀行となったのです。

  この物語の最終章(第36章)において、筆者は読者に「旧モルガン銀行ほどの神秘さを備えた銀行が今後現れるだろうか?」と問いかけます。「おそらくないだろう。(中略)モルガンの特質の多くは、グローバルなものの見方から来ていた。アメリカとヨーロッパとの間の資本移動の誘導役として、旧モルガン商会は自然に海外に目を向け、アメリカがまだ田舎者で孤立主義だった時代にユニークな世界的視野に立つコスモポリタンだった。今ではアメリカ全体がこの状態に追いついた。旧モルガン商会が権力を持っていたのは、各国の大蔵省、企業、資本市場が未成熟だったことによるものだった。モルガンは小規模で未成熟だった資本市場の先頭に立つ歩哨役を務めたのだ。今日、お金は世界各地のどこにでもあるありふれた商品と化している。こうしてお金が神秘性を失った結果、銀行業もその魔力を少々失ったのである。」(P574)

   そして、著者は最後に、このモルガン家の物語を次のような言葉で締めくくります。「モルガンの物語は、近代における金融そのものの物語である。ピアポント・モルガンがかつて一人で振るった権力は、今日ではグローバルな巨大銀行コングロマリットの間に分散されてしまっている。かつてマホガニー造りの応接室でほおひげを生やしていた紳士たちが行っていた金融取引は、今や世界中のトレーディング・ルームに分散して広く行われている。われわれが今生きているのは、旧モルガン商会の時代よりはるかに規模が大きく、はるかにスピードが速く、はるかに個性のなくなった時代なのである。これからもはるかに多くの金融取引が行なわれ、はるかに大きな財を成す人々が出てくるだろうが、モルガン商会のような金融王国は二度と現れないだろう。」(P575)

 (*1)ロンドンが金融センターとして生き残れるよう、当時のサッチャー政権が行った金融・証券の自由化措置。宇宙創造の大爆発(ビックバン)になぞらえられたほどの根本的な大改革。(*2)当時黒ビールで有名なギネス社が大手スコットランド酒造会社ディスティラーズ社の乗っ取りを画策。その過程でギネス社は自社株の株価操作を行ったとされる事件。シティを震撼させた1980年代最大級の金融不祥事。