学問のすゝめ

  現在の日本銀行券一万円紙幣にもなっている福沢諭吉先生の代表的な啓蒙書で、1867年の大政奉還からわずか5年後の1872年(明治5年2月)に初編が出版され、その後1876年まで、全17編が発行されました。これを後年まとめものが、現在知られている「学問のすゝめ」です。

  「『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず』といへり。」というあまりに有名な書き出しではじまるこの「学問のすゝめ」ですが、この後、どのような言葉が続くかご存知でしょうか。次の「学問の必要」という標題の中で次のように続きます。「されど今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しき人あり、富める人あり、貴人もあり、下人もありて、そのありさま雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。その次第、はなはだ明らかなり。『実語教』に、『一人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり』とあり。されば賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとによりて出来るものなり。・・」と続きます。つまり、本書のタイトル通り、読者に学ぶことの重要性を説いているのですね。

  では、福沢先生が、意図するところの「学問」とは何を指すのでしょうか? (ちなみに江戸時代では、勉強と言えば、手習い(文字)などから始まり、その後は、儒教などの漢学を学ぶことが一般的だったようです。) 「学問のすゝめ」(初編)において福沢先生は、「もっぱら勤むべきは、人間普通日用に近き実学なり。」と説き、まず、「いろは四十七文字を習ひ手紙の文言・帳合ひの仕方・算盤の稽古・天秤の取り扱ひ等を心得、なほまた進んで学ぶべき箇条ははなはだ多し。・・」と、ひらがなや手紙の書き方、簿記や算盤(会計学でしょうか?)、天秤の扱い方(これはものを売るときのはかり売りに必要なんでしょう。)を学ぶことの大切さを語っています。そして、こういった文字や手紙の書き方を学んだ後に、地理学、窮理学(物理学)、歴史、経済学、修身学(道徳)などの専門学の学びを勧めています。このような実学を現実の生活に活用することにより、個人各々の家業、産業が栄え、ひいては国家の独立がなされる、としています。

  「初編」においては「個人の自由」「国家の独立」についても強調していて、「個人の自由」については、自由と同時に義務についても書いています。また「国家の独立」についても、これまでの日本の鎖国の歴史を反省し、外国とも交わり互いに教え学び合うようにしなければならない、しかし、外国から屈辱を受けたならば、国民は命をかけてでも威信を守ることが国家の自由独立である、と説いています。(これは当然のことながら、当時アメリカやヨーロッパ諸国がアジアに進出しアジアの国々を植民地化していた事実を踏まえてのことです。) この他「初編」においては、「官尊民卑の打破」「言論の自由」「平民の覚悟」「無知文盲の罪悪と政治に対する国民の責任」についても述べています。 

  今の(令和という)時代においては、これらの思想は特に目新しい思想ではないかもしれませんが、それまで二百数十年と続いていた「鎖国体制」が根本から覆され、これからどのような時代が訪れるのか想像できない、というような新時代の人々と現代に生きる自分を置き換えてみると、「学問のすゝめ」において福沢先生が説かれていることは正に革命的と言っていいほどの思想変革だったことが想像されます。 

  尚、「初編」において述べられている思想や考え方は、「二編」以後各編において発展的に深化、細分化されて展開されます。例えば、「国民の遵法の精神」(第二編)、「国権の平等」(第三編)、「国法の貫きを論ず」(第六編)(政府を「国民の名代」と考え社会契約説に基づく市民政府と定義し、法治主義の重要さを説明する。)「男女同権」(第八編)、「演説の法を勧むるの説」(第十二編)(これまで日本には、人前で自らの主張を述べる、という習慣はありませんでしたが、福沢先生は、アメリカの政治家や学者が、壇上でに上がり自らの考えを人前で述べる、という ”スピーチ”  の習慣を日本にも導入したいと考え、慶應義塾で自ら実践し、「演説」という言葉も造りました。ところで、福沢先生は、英語の原書を日本語訳して紹介した功績は多大で、英語からたくさんの和製漢語を造っています。例えば、経済、簿記、文明開化、動物園・・。) など。

  この他、道徳観や人との付き合い方を論じているところもあります。例えば、「怨望の人間に害あるを論ず」(第十三編)においては、人間の不道徳のうちで最大は、怨恨であると断じていたり、「事物を疑いて取捨を断ずること」(第十五編)においては、何事においても物事の採用前は、慎重な検討と取捨選択が必須であることを述べたり、「人望論」(第十七編)においては、世間的な評価の必要性を説いて、見た目を良くしなさい、とか、広く友好関係を持ちなさい、などど語っています。

  私的に興味深かったのは、「第六編」の「国法の貫きを論ず」において、今でもよく書籍、ドラマなどで扱われている「赤穂浪士の討ち入り」を、封建社会における私裁(私刑)の悪例として批判していることでした。福沢先生としては、本書において「日本はこれからは法治国家にならなければならない。」と主張している手前、それまで、武士が「切り捨て御免」として、農民や町人の輩を̪私裁(私刑)できる慣習や、仇討、暗殺といった類の法の及ばない人権の侵害は、看過できなかったのでしょう。

  では、今、我々がこの「学問のすすめ」から学ぶべきものって何でしょうか? もちろん、「自由」「平等」「法の尊重」など、本書において述べられていることは目新しくはないにせよ、今の時代でも意味のあるものですが、何より本書全編を通して感じられたのは福沢先生の、新しい時代に対する強い希望と、新生日本を良くしていこうという気概、そして、その根本にある「独立自尊」の精神です。(この「独立自尊」という精神は、慶應義塾大学の理念にもなっています。)個人においては、何事も他人に頼らず、独力で行い、自分の尊厳を守ること。国家においては、世界の国々と対等に付き合い、学ぶべきところは学び、言うべき時には毅然として言う。「個人的独立心の強い国民があって、はじめてその国は独立できるという思想は、福沢先生の生涯をとうしての根本精神でもあった。」(三編注P49)

  おそらくは、福沢先生が生まれた封建制度の時代においては、個人の身分や出世というものは生まれた家の格式で決まってしまい、個人の才能や努力ではどうにもならなかったのですが、先生は幸運にも、その封建制度が崩れる新時代が訪れる転換期に生まれ、自ら蘭学や英学を学び幕府の外交職員となり、更に英学者、教育者の大家として立身出世をした、その人生経験が、「独立自尊」という精神を体現していたのだと思います。また、下級武士の儒教学者だった父や当時の体制に対し、どこか反骨精神を抱いていたのかもしれません。

  1835年、大坂中津藩蔵屋敷に生まれた福沢先生は、54年蘭学を志し、緒方洪庵の適塾に入門。江戸に移り、その後英学に転向します。万延元年(1860年)、外国語の能力を認められて、江戸幕府の外国方(現在の外務省にあたる)に勤めることになり、外交文書の翻訳を担当。そしてこの前後に、幕府の遣外使節の一員として3度、欧米へ渡る機会を得ます。この経験により、アメリカ、ヨーロッパ諸国の思想・文化を吸収し、新生日本における日本人が拠り所とすべき思想や考え方を形作ることができたのです。また、3度の外遊により購入した英語の原書は、日本の英学の普及に大いに貢献しました。

  明治政府は、開国進取の方針を決めるとすぐに政府のブレーンになるよう福沢先生に打診しましたが、他の学者たちと違って、その要請を断り、あくまでも一平民として民間の教育と啓蒙活動を自らの使命とする立場を明確にしました。(これは、自らの著書「学問のすゝめ」における「官尊民卑の打破」を自ら実践する形になりました。) 民間の教育機関で活躍した福沢先生ですが、当時は、教育界に大きな影響をもっていて「文部省は竹橋にあり、文部卿(現在の文部科学大臣)は三田にあり。」と言われていました。これは、文部省の建物は皇居に近い竹橋にあるが、文部省の教育を支配する実力者は、三田の福沢諭吉だ、という意味です。(P274) 「明治初年のいわゆる文明開化の風潮は福沢によって指導され、代表されたと言っても過言ではない。」(本書解説、P250)

     ( 流石「学問のすすめ」というタイトルの著者である福沢先生、日清戦争後の晩年も毎日、午前に3時間から4時間、午後に2時間勉強し、また居合や米炊きも続け、最期まで無造作な老書生といった風の生活を送ったといいいます。Wikipediaより)