完本 哲学への回帰

    京セラ名誉会長の稲盛和夫さんと哲学者の梅原猛さん(*注)がこれまで継続的に行ってきた対話の対論集を「完本」として一冊にまとめたのが本書です。(これまで、お二人はいろいろな分野、例えば、地球環境問題、テロや地域紛争、反社会的な事件、経済危機、企業破綻などについて対論を重ねられ、これまでに『哲学への回帰』(1995年9月発刊)、『新しい哲学を語る』(2003年1月発刊)、『人類を救う哲学』(2009年1月発刊) と 3冊の対話書として出版されてきました。) 読後、最初に感じたのは、哲学者/梅原さんという素晴らしいカウンターパートを得て、これまで稲盛さんが多数の著書で説いてきた経営論や人生論などの「稲盛哲学」が、より深く普遍的なレベルのものに昇華されてた、ということでした。(とはいっても本書は、以前から継続されてきたお二人の対論集をまとめたものなので、単に私が今までそれらの対論集の存在を知らなかった、というだけのことなのでのすが。。)

  お二人の哲学は、どちらも東洋哲学を基礎にしているせいか、「心の在り方」をとても重視しています。そして、現代の日本で起きている企業の犯罪や、社会における子供の犯罪は、日本人が心の教育を怠ってきたからだと指摘します。

  お二人は江戸時代の日本人の精神性をとても高く評価していて、稲盛さんは「江戸末期から明治にかけて日本を訪れた外国の知識人は、まだ侍社会だった日本を見て、『なんと美しい心を持った民族か』と驚嘆しました。あまり進歩もしていない農耕社会で、限られた田畑を耕し、そのなかで家族を養っている。ちょっとした気候変動によっては不作に陥り、飢饉に遭う。そんな非常に貧しい、よくいえば慎ましい生活をしていた稲作農耕民を見て、『礼儀作法がすばらしい。知らない道行く人にも挨拶をするし、親切な振る舞いをする。こんな民族がいたのか』と絶賛しているのです。」(P184)と語っていますし、梅原さんも「江戸末期から明治初期に日本を訪れた多くの西洋人は、日本人のことを『ちょんまげをして刀を差している野蛮人』だと思っていた。しかし、接してみると、じつは非常に礼儀正しく、道徳心の強い民族であると感じたのです。」(P185)と語っています。そして梅原さんは、日本人の美しい心を育んだ江戸時代の教育について「武士の道徳の規範は主に儒教で、塾で孔子や孟子の教えをきちんと習い、一方、庶民においては、まず仏教の教育を受け道徳を養ってきたのです。」(P226)と話しています。

  では外国人から称賛されたこのような美しい心を日本人はどのように喪失していったのでしょうか。 梅原さんは このような日本人の美しい心は、明治からの近代化の過程において失われていったと考えています。「明治国家は道徳教育の規範として教育勅語をつくり、それが『宗教の代用品』のようになり、日本人の精神を形成したが、その道徳は仏教はもちろん、儒教でも神道でもありませんでした。それは近代の国家主義がそれらをつぎはぎしてつくった道徳にすぎず、そこには深い哲学がまったく欠如していたのです。」(P224) そして、なお悪いことに戦後の学校ではそのような道徳すら教えてこなかった。(つまり、今生きている多くの日本人は道徳について何も教えられていない。)そしてその結果、仮に欲望を抑えることができたとしても、それは単に出世の為であって、その人がいい学校を出て、官庁や大企業に入ったら(己の利益ばかり追求しやがては)欲望の虜になってしまう。今の日本でいちばん恐れるべきことは「道徳の不在」である、としています。そして、「この原因は明治時代の『廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)』に遡る。」と話します。( 廃仏毀釈:仏教寺院・仏像・経巻(経文の巻物)を破毀(破棄)し、仏教を廃すること。/ Wikipediaより)

  では日本の明治時代に行われた「廃仏毀釈」とはどのようなものだったのでしょうか?「廃仏毀釈とは宗教の否定です。廃仏毀釈というと、仏教だけを捨てて神道を推奨したように思われていますが、あれは神道も否定しています。結局、天皇という神様だけを残して、あとの神様はすべて否定したのです。そうした宗教を否定し、神様を殺すことで、日本は近代化が可能になったのではないでしょうか。しかし、そのツケが今きているのです。」(P227)更に梅原さんは次のように教育勅語を批判します。「しかも、宗教を否定したうえでつくった教育勅語は、天皇の側近だった儒学者の元田永孚(もとだながざね)が、儒教の道徳を近代的な国家主義の道徳、つまり、忠君愛国を奉じる道徳に焼き直して書いただけの平凡なものなのです。だから『朕思うに我が皇祖皇宗。。。』というように、心に響いてこない言葉が羅列されているのです。」 

  日本では、テレビなどで子供たちの「心の教育」が議論される時、たびたび識者方が「道徳論」とか、「教育勅語」などについて自らの考えを述べますが、本書においてお二人の話しを読むと、現代の日本人の「精神性の欠如」という意味、そして、そのルーツがなんとなく分かってました。梅原さんに対し稲盛さんも「一つ指摘しておきたいのは、その道徳の代用品のような教育勅語が悪しきナショナリズムに悪用されたために、戦後になって道徳論を持ち出すと、思想をコントロールしようとしているのではないか、と一般の人々に受け取られるようになってしまったことです。そのため、道徳、宗教というと無条件に反発する人が多くなってしまった。」(P228)と話しています。 私的には、哲学者、梅原 猛さんの哲学が私のようなシロウトにもとても分かりやすく、人間的にも精神的にも納得できるものでした。これまで梅原さんの本は一冊も読んだことがなかったのですが、これからは梅原さんの書籍も読み漁ってみたいと思いました。

  この中でお二人が、福沢諭吉について語っているところがあります。稲盛さんは、福沢諭吉先生が説いた「実業家として必要な四つの条件」を常に心して読んでいると挙げ、次のように説明しています。「(実業家は)まず、哲学者が持つような深遠なる思想を持たなければならない。そして、元禄武士が持っていたような美しく気高い心がなければならない。そして、三番目にくるのが『小俗吏ノ才』です。江戸時代の木端役人が袖の下ぐらいもらったような、気の利いた悪賢い才覚を福沢は『小俗吏』と言っているのですが、そういう才をもっていなければならない。最後に、農民のような『頑健さと粘りの意志』がなければいけない。この四つをもたなければ、実業界の成功者にはなれないと、福沢は言っています。」  そして、「私は福沢諭吉を偉い男だと思います。明治になって、最初に欧米の資本主義社会を見に行って、欧米の実業人というのはこうだぞと、日本に帰ってきて言っている。あの当時は精神的に純粋なのでしょうね。だから、才覚とか商才というのは三番目にくる。ところが今、日本の実業人はそれを第一に上げてしまい、あとは四番目の『頑張る精神』があるくらいで、肝心の『哲学』と『心根』はどこかに置いてきてしまいました。福沢の言う第一、第二の条件を、(現代の)ビジネスに携わる者は取り戻すべきです。」(P34)と考えています。

  最後に本ブログで皆さんに紹介したいのは、稲盛さんがセラミックの研究をはじめてから、自分が他の研究者と違い、基礎知識も十分ではなかったのに、開発できた「フォルステライト」という新しいセラミック材料の合成に成功したエピソードについてです。この材料は、実は稲盛さんが開発に成功した1年前に、アメリカのGE(ゼネラル・エレクトリック)の研究所が世界で初めてつくることに成功していました。つまり、それほどつくるのがたいへん難しい材料であったにもかかわらず、しかし、稲盛さんは、GE研究所の合成方法とはまったく異なる独自の方法によりつくることに成功したのです。

  「このフォルステライトの開発はまるで、歩いていたら大きな石に当たったような感じさえ受けるのです。(中略)さらに不思議なことは『こんなことはもう起こらないだろう』と思っていたら、その “まぐれ” が、後々もずっと続いてことです。私は、人生のいろいろな場面で、このまぐれ当たりに遭遇しました。これを私は、神様 あるいは『サムシング・グレート』というような存在がつくった『知恵の蔵(真理の蔵)』ともいうべき場所がどこかにあって、私たちのひらめきや発想は、その蔵から出てくるのではないかと考えたことがあります。」     そして、「その『知恵の蔵』に行くには、何も専門的な知識がなくてもいいのです。ある状態のときに、その蔵から漏れてきたものに触れ、新しいイマジネーションなり、ひらめきなりが得られるのではないか思うのです。」(P319)と話しています。

  この ”知恵の蔵” については梅原さんも御自身の研究経験(梅原さんは、以前、法隆寺の再建は聖徳太子の怨念を封じ込めるために行われたものである、という研究成果を発表されました。)から次のように語っています。(梅原さんの説は当時、)「学会の常識とはかけ離れたものでしたから、発表した当初は学界の権威たちから『こんなバカな説はない』といっせいに悪口をいわれました。それでも私には、これらの説を発表するとき、『間違いはない』という確信がありました。当時の私には何かが乗り移っていたようで、それが私を通じて語ったとしか考えられませんでした。(中略)これらの説を発表してから、もう三十年になりますが、最近は正面切って否定する人はいなくなりました。『真理である』と認めるのは癪なので、みんな黙っていますが、いまでは学界でも定説となりつつあります。」

  そして、「私が経験からいえるのは『真理はいつも発信されている』ということです。ただし、受け止める側が常識にとらわれていると、たとえ真理が発信されていても、それをきちんと受け止めることができません。やはり、向こうからくるものを謙虚に受け止める裸の心が必要です。それが真理を発見する第一の条件であると、私には思えて仕方ありません。これは稲盛さんの『真理の蔵』の話にも通じると思います。」(P322) 昔から、芸術家や発明家が何かのインスピレーションから「ひらめき」を得、美しい曲を作曲したり、芸術作品を創作したり、または、それまでの学説を推し進めるような発見をした、という話は歴史上いろいろありますが、そういった「ひらめき」はすべてこの「知恵の蔵」から導き出されたものかも知れませんね。

       本書では、この他、いろいろな人類が直面している課題(環境問題、資本主義、宗教問題。。)なども取り上げていますが、さすが京都(そして、日本)を代表する知識人のお二人です。どの難しい問題においてもわかりやすく紐解き、それぞれのお考えを述べられていて、しかも、それらの含蓄ある言葉の中に力強さを感じました。また、ページをめくる毎にいろいろ発見がもありました。ビジネスに限らず、芸術や社会、歴史などに興味ある方にも読んで頂きたい教養書です。


(*注)1925 年、宮城県仙台市生まれ。2019 年逝去。京都大学卒。哲学者。京都市立芸術大学学長、国際日本文化研究センター初代所長などを務める。1999 年、文化勲章受章。「梅原古代学」「梅原日本学」と呼ばれる多くの著作がある。著書に『隠された十字架ー法隆寺論』(新潮社)、『水底の歌ー柿本人麿論』(上下巻、新潮社)など多数。 (PHP研究所のWeb商品説明より)


Hisanari Bunko

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