ペリー
最近、幕末を動かした人物の本を読んでいますが、その中で日本の尊王攘夷運動の機運を一挙に高め、幕末における歴史の歯車の回転を速めた人物は、結果的にはこのアメリカ人の(本人は意図しなかったにせよ)海軍司令長官/ペリー提督(マシュー・カルブレイス・ペリー/Matthew Calbraith Perry)だと思います。
このペリーの日本訪問については、「ペリー艦隊日本遠征記」がいくつかの出版社から出ています。「ペリー艦隊日本遠征記」でも、当時のアメリカがどうして自国の艦隊を日本へ送ることまでして和親条約を結ぼうとしたのか、その理由を知ることができますし、日本遠征の過程で訪問した、小笠原諸島や琉球王国(沖縄)の当時の様子なども記述があり、興味深いのですが、ペリーその人について知りたい場合、お薦めしたいのが今回ご紹介する「ペリー」(著者/佐藤賢一さん)です。正直申しますと、著者がアメリカ人ではなく日本人、そして、ペリーと同時代を生きた人でも、またはペリーの(遠い)血縁者でもなく、ましてアメリカ海軍の書籍を書いた人でもないと思われるのであまり期待していなかったのですが、意外なこととても興味深く読むことができました。面白かったです。(佐藤さん、すいません。) 当時、新興国だったアメリカの様子(例えば、当時は、アメリカ国内の鉄道網の整備がアメリカにとっては課題になりつつあったのですが、その鉄道工事の労働力として中国人を移民として連れてくるためには太平洋航路を開設しなければならなくなる。。とか、大統領選が近いので大統領は日本遠征のあまり興味がない、、とか言った類の当時の国内事情もふくめ)や、アメリカより先にアジア各国に貿易網を展開していたイギリス、オランダ、ロシアなどの国との駆け引き、そして、ペリーを取り巻く家族や親戚関係、ペリーの軍人としてのプライド、年齢の不安(当時ペリーは57歳で、海軍の指令長官として日本遠征へ赴くのは体力的にどうか。。という疑問の声もあったのです)。。このように、当時の日本訪問をペリーに決意させる前段階の諸事情がいろいろわかって大変興味深いです。
当時の、日本遠征に当たって、(国を閉ざしている日本と)通商条約を結ぶ困難さを十分に承知していたペリーは、日本に開国を迫り、捕鯨船員の安全確保や石炭の補給基地設営の交渉を行うにあたり「友好関係」を基盤とすることを決めていました。また、アメリカ政府もその外交方針でペリーの日本遠征を承認しました。そのため、日本となんらかの条約を結ぶための外交手段としての武器類の使用は厳禁でした。とはいうものの、相手は200年以上に渡り、外国との外交関係を閉ざしてきた国なので、一筋縄ではいかない、ということは始めからわかっていたので、ペリーは当初、アメリカ海軍の東インド艦隊所属の戦艦を含め、12艦を率いて日本を訪れる計画を立てたのです、換言すると、軍の強力な「威圧」をチラつかせ、日本政府に「友好関係」を迫る、という外交方針を取ろうとしていたのです。結果としてはアメリカ側のいろいろな事情もあり、一回目の日本訪問(久里浜に上陸)では艦船4艦、二回目(横浜に上陸)では9艦を率いて東京湾(当時は、江戸湾沖)へやってきたのです。 武力による威嚇と友好をセットにして外交を行う、というアメリカの外交方針はトランプさんの外交を見ていると、今でもそんなに変わっていない、と感じます。(ところで、ペリーさんとトランプ大統領ってどことなく外見が似ている感じがするのは自分だけでしょうか。)
当時、日本は200年以上におよぶ鎖国政策を取っていたこともあり当時のアメリカ人識者からは興味の対象となっていたようです。「日本という帝国は、昔からあらゆる面で有識者の並々ならぬ関心の的となってきた。加えて、200年来の鎖国政策がこの珍しい国の社会制度を神秘のベールでおおい隠そうとした結果、日本への関心はかえってますます高まった。」(「ペリー艦隊日本遠征記(上)/序論の冒頭部分より) では、ペリーが日本へ訪問し、友好条約を締結したかった理由は、どのようなものだったのでしょうか。
まず、1、アメリカのフロンティア開拓がアメリカ東から西端のカルフォルニアまで到達した当時、そのフロンティア開拓を太平洋まで推し進めようという考えがありました。太平洋の端には、当時の最大の貿易消費国、中国があったのです。しかし、当時の最新鋭の蒸気船で太平洋を渡るにも石炭補給という問題がありました。そして、当時最大の貿易国はイギリスです。イギリスと上海は97日間の移動時間を要します。しかし、一方、日本を中継基地に蒸気船でカルフォルニアから上海へ到達するには、わずか25日しか要しません。そこで、中国とアメリカの間にある(といっても相当アジア寄りですが)日本を石炭や水の中継基地として考えたのです。2、当時の、アメリカの基幹産業の一つは捕鯨です。捕鯨産業の発展のためにも、捕鯨作業員の生命の確保は大きな問題でした。また、アメリカの捕鯨船が嵐に遭遇し、難破、沈没でもしたら、捕獲したクジラは海へ返さねばならなくなり、そのため、資産家のなかで、捕鯨産業に投資しようとする人が減っていってしまうでしょう。 3、当時の、外国との通商条約では、最初に通商条約を締結した国が、後から通商条約を結んだ国と比べても通商条約の内容条件などで最恵国になるのが常識でした。 アメリカと日本の間の通商条約に関しても、アメリカ側は「今後、日本が(アメリカ以外の)他の国と通商条約を締結する場合、その当該国との通商条件を日米間の通商条約にも自動的に適用する。」という条文を入れることに成功したのです。「日米和親条約/第九条 他日、日本政府がこの条約において合衆国およびその市民に許容していない特権と便宜を、他の一国民または諸国民に許容する場合には、なんらの協議も遅滞もなく、合衆国およびその市民にも同じ特権および便益を許容することを取り決める。」(ペリー艦隊日本遠征記/下 P35)
また、下田に停泊中に二人の日本人の若者(吉田松陰と金子重之輔)が戦艦を訪れた時の様子も描かれています。
尚、「ペリー艦隊日本遠征記」では、日本人がペリー艦隊を最初に目撃した時の驚きとか、江戸湾停泊中に艦上からアメリカ艦隊隊員がみた日本の街(江戸)や自然の風景、アメリカ隊が日本の久里浜、横生、函館、下田に上陸し、それぞれの街や、日本人の暮らし、文化を観察した記述、それに、幕府から派遣された武士が艦船を訪れた際、アメリカ側から食事やアルコールの接待を受け満悦する様子とか、詳細に語られていてとても興味深いです。我々の御先祖がアメリカ黒船という異文化に「邂逅」した時の思い(驚き、不安、好奇心など)をよく知るとこができた一冊でした。(是非「ペリー」と併せて読むことをお勧めします。)日本の当時の社会風俗が豊富に版画で紹介されてます。
(下写真/ペリー艦隊日本遠征記(上/下)
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