難題が飛び込む男 土光敏夫

  土光 敏夫(どこう としお)さんは、1950年代~1970年代に石川島重工業/石川島播磨重工業社長、東芝の 社長/会長を歴任。さらに、経済団体連合会第4代会長に就任し、鈴木善幸内閣が掲げた「増税なき財政再建」を達成すべく、1981年に発足した、「第二次臨時行政調査会」の会長を務めた方です。本屋さんへ行ったとき、この本の表紙の土光さんの顔が強く印象的で、なにかしら土光さんが「私の本を読みなさい。」と呼び掛けているようでつい購入してしまいました。私が確か中学生の頃だったか、テレビのニュース番組で奥様と一緒にメザシをおかずに夕食を食べているシーンを見た記憶があり、有名人なのに飾らない人だな、という印象を持った記憶があります(当時は、何をされている人なのかわかりませんでしたが、よくニュースには取り上げられていたのは憶えています。そういえば、今ではよく言われる「財政再建」という言葉も土光さんが臨調に就任されたあたりから使われるようになった印象があります。)著者は一橋大学名誉教授で経営学者の伊丹 敬之(いたみ ひろゆき)さんです。

  土光 敏夫(どこう としお)さんは、1896年(明治29年)、岡山県生まれ。( 1988年/昭和63年逝去。) JAL再建を果たした稲盛和夫さんのように、わまりからの人望があるせいか、それまで、勤めていた石川島芝浦タービン(石川島重工業と東芝の子会社)の社長から、本社石川島重工業の社長として迎えられ、経営難からの再建を託されます。土光さんはこれ以後、東芝の再建、そして国の再建(行政改革)に携わります。土光さんの経歴で興味深いのは、自分からではなく、周りからそういった難題(組織の再建)解決を頼まれることです。なぜ土光さんには次々とスケールの大きい難題が飛び込んできたのでしょう。これには、御本人の生き方が大いに関係しています。前述しましたが、臨時行政調査会(臨調)の第三次答申の一週間前(82年7月23日)にNHKで放送された「85歳の執念 行革の顔 土光敏夫」という特番で土光さんの質素な生活が紹介され、中でも「自分の家でとれたキャベツと大根の葉のおひたし、その日に知人からもらったメザシ、そして玄米ご飯」(P184)を食べる様子が全国放送され、全国の視聴者が「あの元東芝社長、前経団連会長が、この質素な生活か。」と感激したのです。このような清貧の生き方がまず土光さんを再建のリーダーたらしめる大きな要素になっているのだと思います。

  土光さんの生き方を示すエピソードは本書でもいろいろ紹介されているのですが、例えば、戻った直後の石川島では、給与の遅配が続き、労使紛争も起きていました。株価も額面割れの状況でしたが、土光さんは石川島芝浦タービンの退職金全額をはたいて石川島の株式を購入したのです。これは自らの退路を断つという決意でした。もちろん彼がそれを人に語ることはありませんでした。そして、社長就任日初日にタービンから連れてきた経理担当者、下村礼輔さんへいきなりすべての伝票と領収書を社長室へ持ってこい、と指示したのです。(社長就任初日から社長がそこまで目を光らせる、という意思表示を、石川島の社員全員に発信したのです。)また、石川島の再建にあたっては重役だけでなく、部課長から係長に至るまで一人ひとりを呼んで直接話を聞いた、ということです。

  また、当時、土光さんは、(大会社の社長であるにもかかわらず、)バスと国電で通勤し自宅も極めて質素だったのですが、1954年の造船疑獄(当時、造船主力であった石川島へ国が日本海運再建のため援助を行っていた。)において、その土光さんの生活ぶりを知った検事は「(土光さんは)立派な人だ」と感心した、といいます。(P69)

  田中金脈問題以来、国の行政改革が叫ばれていた頃、土光さんは第二次臨調の会長就任要請を受け、81年3月に総理官邸で最初の臨調会議が開かれます。臨調というのは当時の審議会のメンバーとスタッフの質から言えば戦後最大級の規模で各省の気合の入れ方も尋常ではなかった財政再建審議会だったのですが、(この辺の具体的なエピソードは本書P172 からの「第三の難題、行革が飛び込む」を読むと興味深いです。)同年7月には紆余曲折を経て第一次答申が総理官邸に提出されます。この第一次答申提出後の7月中旬、なんと当時の金脈問題の発端を作った田中派(当時自民党最大派閥でした)が土光さんの慰労会の開催を打診してきたのです。はじめは断っていた土光さんですが、臨調の調整役の瀬島 龍三さん(当時、伊藤忠商事特別顧問)からの説得もあり出席します。なんと、そこには田中派トップの田中角栄氏が土光さんを待っていました。田中氏は正座し「歴代の内閣の不始末の処理を高齢の土光さんにお願いして申し訳ない。今後も臨調の出される答申の実行については田中派はあらゆる協力をすることを誓います。」と話したといいます。(P182)

  「凛とした背中」と「現場の達人」という二つのキーワードで、政治家、経済人を引っ張っていった土光さんですが、土光さんが清貧生活を過ごしたのは御本人の性格以外にも理由がありました。実は土光さんのお母さん(登美)は、学校法人橘学苑の創始者だったのですが、土光さんは母の死後、その橘学苑の理事長、校長を引き継ぎました。その運営費が巨額だったようで、その費用捻出のためにも生活を切り詰めざるを得なかったようです。一昔前にはよく「子は親の背中を見て育つ」と言われたものですが、自ら日本の財政再建の範を垂れ、自らの気概を政治家、経済人、そして国民に示した正に、日本の「おやじ」といった感じの方でした。