ハドリアヌス帝の回想

  フランス貴族の末裔とベルギー貴族の末裔を御両親に持つフランスの小説家/マルグリット・ユルスナールさんによって1951年に発表された歴史小説です。 といっても全編がローマ皇帝/ハドリアヌスの回想という形式で、自らの皇帝哲学、人生観、統治、哲学、宗教観、人間関係などを振りかえる回想なので、司馬  遼太郎のような講談調の歴史小説とは違い、どちらかというと純文学に近い(というより完全な純文学)作品です。

  ハドリアヌス帝という人物は、古代ローマ帝国の第14代皇帝です。本書の訳者/多田 智満子さんの「あとがき」による彼の生涯(P370)を見ると、ハドリアヌス帝は、スペイン出身で76年1月24日生まれ、138年7月10日死去(在位期間は117年から138年まで)。 異常に多才で、有能な行政者で軍人、また旅行家でもありました。「文学や哲学にも心を傾け、ラテン語よりギリシア語を巧みに語るヘレニスト(ギリシア語学者)で、皇帝直属の官僚制度を組織し、それまで解放奴隷によって占められていた高官の地位に騎士階級の人々を登用した。『執政法令』を条文化し、『永劫の法』としてこれを全帝国の憲法とした。 あらゆる地方を旅行し、ブリタニアに旅したときはソルウェイからタインにいたる大城壁(いわゆるハドリアヌス長城)を築いた。すべての地域ですべての諸民族を寛大に援助し、恩恵を与えたが、イェルサレムではユダヤ教に対する理解不足から、ギリシア化に失敗し反乱を防止することができなかった。ローマに自分のための大霊廟を営み、ティブルに広大なヴィラ(離宮)を築いた。」 また、Wikipedia では、「帝国各地をあまねく視察して帝国の現状把握に努める一方、トラヤヌス帝による帝国拡大路線を放棄し、現実的判断に基づく国境安定化路線へと転換した。 」とあります。(ローマ帝国の歴史については無知なのですが、)要するに多才で賢明。近隣諸国の異民族にとっても寛容で偉大な人格者、統治者だったことが推測できます。(また、そういう人物だからこそ、ユルスナールさんも自らの作家人生において自分なりのハドリアヌス帝という人間像を創造したい、という強い意欲に駆られたのだと思います。)

  この作品は、病に伏し、みずからの人生と治世の終わりを予期するハドリアヌス帝が、二代後の後継者と定めたマルクス・アウレリウスに宛てた書簡というかたちをとって、侍医ヘルモゲネスの定期的な診察を受けた後、自らの人生について回想するところから始まります。若き日に心に抱いていた野心、自らが関わった戦争における誇りと(特にイェスラエルでの人民統治の)反省、政治執行者としての成功の数々の回顧や苦悩の吐露、同性愛の関係にあった若き寵臣アンティノウスの死、後継者選びの苦悩、、実際のローマ皇帝が自分の治世の終わりに回想録を書いたとすればこんな内容になるのではないか、という違和感のない深い沈思と威厳と自省に満ちた内容になっています。(余談ですが、後に第16代ローマ皇帝になるマルクス・アウレリウスという人物は「自省録」という著書でおなじみのローマ皇帝で、2000年公開のハリウッド映画「グラディエーター」(リドリー・スコット監督)でも、映画の冒頭、遠征地の宿営キャンプで夜、「自省録」を書いている姿が描かれていました。演じていたのは1960年代のアクション俳優、リチャード・ハリスです。)

  正直なところ、古代ローマ史や古代ローマ文化に興味がない、または疎遠な読者にとって、文章の至る所にでてくる当時の政治家、哲学者の名前はどうしてもこのハドリアヌスの人生観、世界観に没入するのに制約を与えることになるかもしれませんが、時間を超えて古代ローマを創造、継承してきた大賢人の知恵や哲学を作家ユルスナールさんの視点で(はありますが)学べる、ということは素晴らしいことだと感じました。(ちなみに、ライフネット生命保険株式会社創業者で読書家の出口治明氏は、「もし自分が無人島で生活することになった時、一冊だけ本を持って行って良い、といわれたらためらいなしに『ハドリアヌス帝の回想』を持っていく、と著書の中で話されていました。)

  作者であるユルスナールさんは1903年、フランス貴族の末裔たる父ミシェル(Michel Cleenewerck de Crayencour)と、ベルギー貴族の末裔たるフェルナンド(Fernande de Cartier de Marchienne)を母にブリュッセルで生まれました。しかし、母は出生時の産褥熱でユルスナールさんが生まれてからすぐに世を去ります。その後は、もっぱら博学な父の教えにより西洋古典の教養を身につけ、幼少時から父に伴われて各地を旅行。父を26歳のときに亡くしますが、その以降もヨーロッパや小アジア各地に遊学します。1937年に渡米し一時帰国したが、1939年に第二次世界大戦開始により、再びアメリカに渡り1958年まで、ニューヨーク近郊サラ・ローレンス大学で比較文学を教えた。退職後はメイン州のマウント・デザート島(モン・デゼール島、Mount Desert Island)の小さな屋敷に住み、著作の合間に旅行をする生活を送った。(Wikipediaより)  ユルスナールさんは、「二十代の頃から、ハドリアヌス帝について書きたい、という欲望を抱いていた。」と伝えられます。また、ユルスナールさんのお父さんが亡くなったのが、著者が26歳の時ですからもしかしたらお父さんの死が本書を書く遠因になっているようにも思えます。しかし、ハドリアヌス帝の回想録を完成させるためには、年齢に伴う経験も、作家的な力量も20代の自分には不十分であるという、ユルスナールさんの冷静な判断にもとづいて、執筆はいくたびのかの中断と再開を繰り返し、いったんは完全に放棄されます。「作者による覚え書き」のなかで、ユルスナールさんはこう記しています。「いずれにせよ、私は若すぎた。四十歳を過ぎるまではあえて着手してはならぬ類の著書というものがある。その年齢に達するまでは、人と人、世紀と世紀とを隔てる偉大な自然の国境を誤認し、人類存在の無限の多様性を見誤る危険がある。あるいは反対に、単なる行政区画や、税関や、守備隊の哨舎などに、重きをおきすぎるおそれがある。皇帝とわたしとの距離を正確に計算することを学ぶために、わたしにはそれだけの歳月が必要だったのだ。」(P363)

  マルグリット・ユルスナールさんは、1951年に発表した本作品によりフランス国内のみならず、ひろく諸外国の評家の絶賛を博し、❜ 52年度のフェミナ賞(*1)を受賞し、本作品はたちまち諸外国に翻訳されてイギリス、アメリカでもベストセラーになりました。また、1977年にはアカデミー・フランセーズ文学大賞(*2)を受賞。1980年には女性初のアカデミー・フランセーズ会員(*3)となります。さらに、1983年にはエラスムス賞(*4)を受賞。 1987年12月、マウント・デザート島の小さな町バー・ハーバー(Bar Harbor)の病院で死去。

(*1):フェミナ賞(仏: Prix Femina)は、ゴンクール賞、ルノードー賞、メディシス賞、アンテラリエ賞と並んで、フランスでの最も権威ある文学賞の一つである。

(*2):アカデミー・フランセーズ文学大賞(Grand prix de littérature de l'Académie française)は、1911年に創設された最も権威のある文学賞のひとつ。アカデミー・フランセーズ小説大賞(アカデミー・フランセーズ賞)が毎年、アカデミー・フランセーズにより最も優れた小説に贈られるのに対して、アカデミー・フランセーズ文学大賞は作家の全作品に対して贈られる。

(*3):アカデミー・フランセーズ(仏: l'Académie française)は、フランスの国立学術団体。フランス学士院を構成する5つのアカデミーの一角を占め、その中でも最古のアカデミー。 アカデミーは定員を40人として政治、文化、科学等様々な背景を持つ面々で構成される。会員資格は終身であり、会員の死亡等で欠員が生じると、現会員の推薦と選挙によって新会員が決定される。本ブログでは触れてませんが、ユルスナールさんは女性です。彼女はアカデミー・フランセーズ初の女性会員でした。

(*4):エラスムス賞(Erasmus Prize)は、ヨーロッパの文化、社会、社会科学への貢献を評価して毎年授与される賞。実施団体はオランダのNPO・エラスムス財団(Praemium Erasmianum Foundation)であり、1958年6月23日に王配ベルンハルトにより設立された。

(*1)~(*4)すべてWikipediaより。