世に棲む日日(全4巻)
司馬遼太郎さんの幕末時代小説です。薩摩藩、土佐藩と共に尊王攘夷運動の中心として幕末の世を動かしていった長州藩の先駆的リーダー、吉田松陰と松陰の門下生、高杉晋作の活躍を描いています。吉田松陰は 1830年(文政 13年) 9月 20日(西暦)生まれで、叔父/玉木 文之進の指導により早くから学問の才能を発揮、わずか9才にして藩校/明倫館における兵学師範に就任。11歳にして藩主/毛利 慶親出席の御前講義を行い、その講義に感銘を受けた慶親により松陰は29歳でその生涯を閉じるまで慶親の恩顧を陰に日向に受けることになります。1850年(嘉永3年)、松陰は兵学をさらに深く学ぶため、九州、更には江戸へ遊学。さらには嘉永5年、東北への遊学も行います。その旅の過程で松陰は、信濃松代藩の佐久間 象山を師と仰ぎ砲術・兵学を学び、肥後藩の尊王攘夷派、宮部 鼎蔵(みやべ ていぞう)とも親しくなります。また、当時手に入る兵学書や歴史書、教育書等書籍をむさぼるように読み吸収していった、当時指折りの有識者でもありました。実は松陰は、東北遊学の時脱藩するという罪を犯すのですが、彼の運命を大きく変えたのは、1853年のペリー来航でした。
松陰は江戸湾停泊中の黒船を師の佐久間象山と共に遠望観察し、西洋の先進文明に衝撃を受けます。翌年、日米和親条約締結の為、ペリーが下田に再航します。松陰は攘夷運動(外国人打ち払い)を成し遂げるにはまず、「彼らの文明を学ばねばならない、」と考え、弟子の金子 重之輔(かねこ しげのすけ)と共にアメリカ留学のための渡米をペリーに直接交渉することを決意します。もちろん、当時の日本は鎖国中なので、もし、このことが幕府に知れてしまうと厳罰をうけることは覚悟の上です。二人は小舟を盗み、下田沖に停泊中のペリーの乗船するポータハン号に乗艦することに成功しますが、日本と条約を締結中のペリーは、この日本人の若者二人の渡米が幕府側へ発覚したら、条約締結が危ぶまれることを危惧し二人を追い返します。
ここから松陰には過酷な運命が待っていました。二人は幕府の処分により国許蟄居となり、長州へ檻送されるのですが、この途中で、金子が死亡します。長州への帰国後、松陰は、長州藩で保護観察の身でありながらも、松下村塾を開校し、尊王攘夷運動の中心となる運動家達を数多く輩出します。(この松下村塾が後年有名になり、松陰は「指導者」「教育者」として後世に名を残すことになります。) 蟄居を命ぜられていた松陰は、世の中の動きをかつての遊学で築いた人脈や、書籍によりアップデートするのですが、外国列強国によるアジア支配の動きを知れば知るほど、国を憂う気持ちは強くなり、次第に反幕府思想に傾き、その政策に不満を募らせ、「倒幕」という考えを抱くようになります。1859年(安政6年)松陰は、攘夷運動の運動家と関わっていた疑いにより、江戸に檻送されて伝馬町牢屋敷に投獄されます。そして、結果的に幕府の御咎めにより斬首刑に処せられ、29才という短い生涯を終えます。(この松陰の死刑には、安政の大獄を推し進めていた井伊 直弼の意向がありました。)
本書のもう一人の主役、高杉晋作は、1839年(天保10年) 9月 27日生まれ。藩校/明倫館で学んでいた晋作は、友人の間で評判になっていた松下村塾を尋ね、18歳の時に入塾します。晋作が松下村塾で学んだのはほんの数年ですが、その間に長州藩の時勢は急速に勤王攘夷に傾いていきます。(この辺の時代の流れは不思議なのですが、松陰が生きていた頃は「攘夷」「倒幕」というだけで(現代でいう)テロリストとして、危険視されたのですが、それがわずか10年ほどの間に、「攘夷」「倒幕」という思想は熱病のように長州藩全体に広がります。)この尊王攘夷思想という「熱病」にうなされるかのように長州藩は、一種狂犬のように狂暴化し、京へ武力乱入したり、英仏米欄に四か国艦隊と行動を激化させます。幕府と佐幕(幕府支持)派は長州征伐を決意、その武力圧力の中で、長州藩は仕方なく佐幕政権を成立させます。
身分に因らない志願兵で組織された奇兵隊を結成した晋作は、長州藩における佐幕傾向の時勢を見極め反撃の機会を待ちます。そして、1865年 功山寺(下関市長府)においてわずか 80人でクーデターを起こします。(このメンバーには伊藤 博文(*)も参加していました。)このクーデターは結果的に成功し、奇兵隊はメンバーを増やしていきます。土佐藩を脱藩した坂本龍馬を仲介役にした薩摩藩との軍事同盟(薩長同盟)の締結に成功し、時勢を得た晋作率いる奇兵隊は、翌年、長州の四境から進攻した幕府による第二次長州征伐を撃破するのです。1867年(慶応3年)、晋作は肺結核により死去します。
吉田松陰については、皆さんご存知の通り「松下村塾」で多くの才人を育てた教育者として高名です。また、幕末関係の書籍でも吉田松陰に関するものは少なくありません。そのせいか、この作品における松陰の占める割合は意外と少ない印象を受けました。その一つの理由は、おそらく司馬さんが幕末の長州藩を扱う作品を手掛ける前からすでにいろいろな作家が、創り上げてきた「松陰像」というものを避けたかったこと。そして、司馬独自の「松陰像」というものを描きたこと(例えば、本書P36の記述に「松陰というこの若者はどうやら家族や一族だけでなく、藩ぐるみで生みあげた純粋培養といえるのかもしれない。」というのがありますが、これは、家族(叔父が山鹿流兵学師範)、叔父の玉木(時に変質的で狂気じみた教え方をした)や、松陰自身が就いた藩校教授という職、そして、藩主(藩校/明倫館)における定期的な試問、それらが全て重なり合って、兵学者・尊王攘夷家/吉田松陰を育成していった、換言すると、一種攘夷のために育て上げられたサイボーグのようなちょっと怖い「松陰像」という印象を受けます。)
また、一つには、司馬さんは松陰という、どちらかというと思想家、教育者という性格の人間よりも、坂本龍馬のような活動家、行動派(自ら動き、周りを巻き込み時代のうねりを創り出す)タイプの人間により魅力を感じているせいかもしれません。この作品おいては物語前半の松陰の「静」と後半の晋作の「動」というように一種の対比がなされれているように思いますが、やはり、司馬さんの描く人物像として、物語後半の晋作の活躍に魅力を感じたのは私だけではないと思います。特に功山寺で決起してから第二次長州征伐における戦闘描写など晋作の戦いを一種のヒーローのように伸び伸びと活写しています。
余談ですが、松陰に関する本をいくつか著している川口 雅昭さんによると、著書「吉田松陰」において、「松陰が黒船で来航したペリーへ接近したのは、実は、ペリー暗殺が目的だった、」と自説を展開しています。皆さんの中で松陰に詳しい方、是非、その真偽を御教示ください。
*当時の名は、「俊輔」
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