リー・クアンユー未来への提言

  シンガポール独立の父、リー・クアンユー氏が、シンガポールの新聞社「ストレーツ・タイムズ」の若手記者達と行ったインタビューをまとめたものです。リー氏は、以前に「回顧録」を上巻と下巻の二冊上梓していたのですが、リー氏は、シンガポールの若い世代に「経済か国軍が強くなければシンガポールの将来は危険である。」というメッセージを伝えるためその3巻目を準備していたのですが、同新聞社の記者は、「回顧録」という形式ではなく、シンガポールの若者世代がリー氏に思っている質問を(若者世代の代表として)あえて同新聞記者の若手がリー氏へぶつける、というインタビューする形式にして、リー氏の強い思い、考えをストレートに記者に語ってもらい、それを出版した方が、リー氏の強い思いがより一層、シンガポールの若手世代に伝わる、という意見で、このインタビュー形式の本が出来上がったのです。2009年に行われたインタビューは、2合計32時間にも及んだそうで、リー氏は当時86歳でした。

  本書は、シンガポールの若手世代に伝えたいメッセージをリー氏が語る形式になっているため、シンガポールの政治の形態とか歴史がわからない日本人にとっては、注釈や補足が必要な説明がありますが、本書の中で一貫しているメッセージは「資源も国土もないシンガポールが生存するための唯一の手段は経済成長である。」ということです。マレーシアから独立し、辛酸をなめながら経済成長を果してきたリー氏をはじめとする高齢者世代に対し、シンガポールの若い世代は、周辺国の脅威をさほど感じていないようで、国防意識や安全保障意識も、リー氏をはじめとする高齢者世代が若い世代に対して訴えたいメッセージのようです。この辺のシンガポールの若者層と高齢者層との意識ギャップというのは、我々日本人からはわかりにくいのですが、例えば、「物語 シンガポールの歴史」(著者/岩崎/育夫氏 中公新書)を読むと、はっきりと、「シンガポールの安全保障上の仮想敵国は、イスラム教のマレーシアとインドネシアである。」という記述があります。興味深いのは、その危機意識がシンガポールの若年層には希薄であるということです。おそらくは、シンガポールの若い世代が生まれた頃のシンガポールはすでに経済成長にあり、近隣諸国のマレーシアやインドネシアも経済成長を享受していたためか、安全保障上の脅威が表面化、顕在化していなかったのではないかと思います。

  本書の第一章において若手記者が「いつもあなたは破局の恐れの中で生きているイメージがありますが、なぜ、あなたはすべてが失敗してしまうかもしれないと心配するのですか。」と質問します。この質問に対して、リー氏は「我々は非常に不安定な地域にいる。(中略)自分を守ることのできる政府や国民がいなければ、シンガポールは存続できない。我々を取り巻く地政学的な環境を理解しなければ、我々の努力は水泡に帰してしまう。」と危機感をにじませ、シンガポールが毎年 GDPの5~6%の予算を国防に費やしていること、36億5000万ドルを費やして下水を再生水として使えるよう深いトンネルを掘った(ニューウォーター)ことを挙げ、「彼ら(*)は攻囲できるのだ。シーレーンは分断され、ビジネスは停止される。頼るべきは、国連安保理、そして、我々自身の国防力さらにアメリカとの安全保障上の取り決めだ。彼ら(*)は砂(の輸出)を止めた。なぜか。我々を抑えるためだ。マハティールが言うように、『いまのサイズでも彼ら(シンガポール)は厄介者だ。さらに成長させれば、もっとそうなるだろう』。我々には親切な隣人がいるとでも言うのか。もっと大人になりたまえ。」と若手記者を諭します。リー氏は、このような地政学上の潜在的脅威に囲まれて繁栄を遂げたシンガポールを「沼地に立った八〇階建てのビル」と表現していますが、異民族間、異宗教間の調和を達成できれば、「もう二〇階、たぶん一〇〇階以上作ることができる。」と話します。

  しかし、「経済成長が重要」というものの、その内容は日本やアメリカとは少し事情が異なるようで、リー氏は起業家、新興企業育成に関しては消極的です。リー氏はシンガポールの経済について話をする時、人口が少なく国土の小さいスウェーデン、フィンランド、デンマークなどの北欧の先進諸国や香港(すべて人口は500万~900万程度)と比較とします。そして、起業家を育成し、規模の大きい新興企業を育成するには、自国の経済規模や周辺国の市場規模も考えないといけない、と話し、シンガポールは、自国の人口規模の少なさや、周辺国の規制を考慮するとシンガポールで仮に製造業を育成したとしてもその市場は小さいままなので、その製品を消費する市場がない、と結論付けます。このため、リー氏は製造業に関しては、多国籍企業を誘致する形にして、シンガポールに活動拠点を持ってもらい、シンガポールはその誘致のために、自国の税制や法律を外国籍の企業に有利なようにして、インフラの整備や教育環境、衛生面を向上させるという外国籍企業誘致の政策を取っていたのです。自国では、インフラ、公共部門の会社や、投資銀行、法律家等の育成に力を入れてきたのです。

  リー・クアンユー氏の話を読んでいて思ったのは、リー氏はシンガポールについて語っていることで、実は日本にも当てはまることが多いように感じました。日本は人口こそシンガポールより多いですが、国土は島国で、資源もありません。ここでは書きませんでしたが、リー氏は国民の教育に関してはとても重要視しています。また、日本では安全保障の議論はあまり活発になりませんが、(憲法改正議論はさておき)実はシンガポール同様、国防は日本にとって大切なテーマだと思います。機会があればリー氏の「回顧録」も是非読んで見たいと思いました。

(*)文脈からして、明らかにマレーシア、インドネシアを指している。