ギリシア人の物語 Ⅱ 民主制の成熟と崩壊

      塩見七生さんによる「ギリシア人の物語」の第二弾。本書では、(副題である)ギリシアの「民主制の成熟と崩壊」が語られます。

      アテネは国家指導者ペリクレスの元、国内においては民主制を堅持・発展させ、対外的には、エーゲ海の制海権を握る「デロス同盟」をつくり、盟主として君臨します。一方、ペロポネソス半島のライバル国、スパルタはペロポネソス同盟を組織し、ここにギリシアはアテネ・スパルタの二大勢力の力の均衡による平和が築かれます。しかし、もともとペルシア帝国の軍事脅威に対抗するため結成されたデロス同盟は、次第にアテネの覇権国化を助長し、アテネの同盟国はアテネと次第に距離を置くようになり、アテネは「帝国化」して行きます。


     当時の古代ギリシア地図(版図)を見るとわかりますが、当時のエーゲ海、イオニア海周辺では、アテネ、スパルタの他、小さな都市国(ポリス)が乱立していて、そういった周辺国はしょっちゅう海を渡り外交団を繰り出し、外交を行っていました。同盟国間同士の条約の拘束や、周辺国の諍いなどが足枷となり、次第にアテネ、スパルタ両国は争いの渦中に巻き込まれ、両国間を中心に各同盟国を書き込むペロポネソス戦争が始まります。


  ペロポネソス戦争というのは、紀元前431年~同404年の27年間に渡り行われたペロポネソス同盟を主導するスパルタとデロス同盟を主導するアテネ、それら同盟諸国を巻きこんだギリシア世界における戦争です。この戦時中、いくつかの闘いが行われますが、その中でも一番印象的なのは、アテナ海軍のシケリア(今のシチリア)遠征です。これは、アテネの同盟国セゲスタがアテネに援軍を要請し、その要請に応える形でアテネ軍がシケリアへ兵を派遣したのが始まりです。紀元前415年、重装歩兵を載せた艦隊130あまりの大艦隊がシチリアに向かいます。しかし、シチリアに上陸後のアテネ軍は、不慣れな場所での闘いであるということ、シチリアの湿気、食料や生活品などの物資の調達が予定通りに行かなかったり、と完全なアウエィーの闘いを強いられます。一方、対するスパルタとシケリアのシュラクサイを中心にした連合軍は、地の利を以って徐々に優位に戦いを進めて行きます。始めは、戦艦や兵士数など圧倒的な数的優位でこの戦いを始めたアテネですが、予想していた後方支援が受けられなくなり、味方の中でも志気の低い兵士などの離反が続き、戦況はやがて不利なものになっていきます。一度は残存艦隊で撤退を考えたアテネ軍ですが、撤退準備をしていた時、不運にも「月食」が起きます。当時は、軍の行動に神官(占い師)を連れて行き、何かあると軍の作戦を神官により占うことが普通だったのですが、ここで、神官達は「27日間出帆を待つべき。」と伝えます。この間に、敵方のシュラクサイはこの機会を利用し、76隻をもって湾内の86隻のアテナイ海軍を攻撃。祖国へ帰る最後の直接的な手段を失い、アテネ軍の敗走は絶望的なものに変わって行きます。

  

  トゥキュディデスの「歴史」(下)の中に、スパルタ・シュラクサイ連合軍の前に敗走を余儀なくされる、アテネ軍の悲哀を伝える秀逸な描写があります。「しかし、生き残っている者たちの心をさらに締め付けたものは、これらの死者たちよりも生きながら後に残される、重傷者や病人たちであった。彼らの悲嘆や懇願は行く者を困惑させ、一人一人が一緒に連れて行ってくれと兵士に呼びかけ、叫び、同僚や知人とみかければ、この行く仲間に取り繕って体力の続く限りその後を追った。そして力が尽き果てると彼らは訴える悲痛な声とともに置き去りにされていったのである。悲涙は全軍に満ち、たとえ今までに涙以上の被害を敵から受け、またこれから先行きどんな災いが待ち受けているか判らないという恐怖を行く者たちも抱いているにしても、この苦悩のために彼らの足は容易に前に進まなかった。。」(P232) 結局、この戦いで捕虜となったアネテ兵士は二度と祖国には帰れず、シケリア島の石切り場に閉じ込められ、悲惨な労働環境下で全員が死んでしまうのです。


  さらに、塩野さんは、この石切り場を訪れた時のことを本書で次のように書いています。「二千四百年前の石切り場は、今ではラトミアと呼ばれ残っている。これまでの長い歳月の間に掘り下げられて、今では下から入れるようになっているが、内部に踏み込むとヒヤリとする。ただしその冷気はのみの跡が残っているのを眺めているうちに寒気にかわる。アテネの捕囚たちがうめき苦しむ声が二千四百年の歳月を超えて聴こえてくるような思いになる。」(P336)


  アジアにあって強大な力を持つ、アケメネス朝ペルシア帝国のギリシア進攻にスパルタと協力し、打ち勝ったアテネですが、そのペルシア戦争の終わりから45年後、このシケリア遠征が転換点となり(また、国内政治では、ポピュリズムが台頭し)、「アテネ帝国」の解体が始まります。つまり、このシケリア遠征と言うのは、覇権国アテネいとって「終わりの始まり」となった出来事と言えるのです。一方のスパルタは、この戦いで弾みをつけ、後年、アケメネス朝ペルシアから資金援助を得、海軍を増強し次第に制海権を握ってアテネの穀物輸送路を抑えこむことに成功、アテネはついに全面降伏し、「アテネ帝国」は終焉を迎えることになります(紀元前404年)。 そして、アテネに代わり、ギリシアの覇権国となったスパルタですが、このあと、マケドニアにフィッポリス二世の息子、アレクサンドロス大王が勃興し、そのスパルタのギリシアにおける覇権も長くは続きませんでした。