イリアス(下)

  紀元前8世紀 半ば、ホメロスによってつくられたとされる「イリアス」。この下巻では、ギリシア軍とトロイア軍の一進一退の攻防が続いているところから始まりますが、ギリシア軍は徐々に劣勢になります。ギリシアの主神ゼウスの描いたシナリオでは、この後、ギリシア軍が巻き返すことになっていますが、その前提として、ギリシア軍はトロイア軍によって絶体絶命の窮地に追い込まれねばなりません。なぜなら、そのギリシア軍を救うのが(上巻で、アガメムノーンの仕打ちに怒り、この時までギリシア船団の陣地にいながら戦闘放棄している)アキレウスだからです。(彼は、ギリシア軍を勝利に導くため戦場で勇猛果敢に戦い、その代償として短い生涯を終える運命にあることが上巻の初めで暗示されています。)

  

  劣勢になりつつあるギリシア軍の戦況をみていたアキレウスは、ギリシア軍の戦友に同情しますが、しかし、アガメムノーンへの怒りは強く、彼のために戦うことは絶対しないと再度心に決めます。そこへアキレウスと共にギリシア軍に従軍している親友パトロクロスが来て、味方の為に戦うよう彼に説得しますが、アキレウスの決心は堅く、彼の心は動きません。パトロクロスは、アキレウスを説得するのは無理と判断し、せめて、彼の兵士を自分が借り受け、戦場で自らが指揮を取ることができるようアキレウスに懇願します。自分の兵士の他、自らの鎧兜を親友に差し出すことにしたアキレウスは、パトロクロスの武運を祈り戦場に送り出します。しかし、パトロクロスは、トロイア王の息子へクトールの槍の前に倒れます。


  この親友の死でアキレウスの怒りがついに爆発。戦列に復帰する決意をしたアキレウスの活躍により、ギリシア軍はギリギリのところで息を吹き返します。このギリシア軍の猛攻により、トロイア軍はトロイア城市への退却を余儀なくされます。しかし、このトロイア勢の退却の中で、一人ヘクトールだけはトロイアの城門の前に立ちふさがり、攻め込んでくるギリシア軍と対峙します。ここへアキレウスが登場。パトロクロスからはぎ取ったアキレウスの鎧兜を付けたヘクトールとの一騎打ちが始まります。しかし、かつて自分のものだった鎧兜の弱点をアキレウスは知っていました。それは、胸甲(むねあて)と兜の間にある隙間です。アキレウスは、ヘクトールの首にあたるその隙間へ、槍を思い切り突き刺します。この一撃で倒れるヘクトール。トロイアの城門の上から二人の決闘を見つめていたヘクトールの父、トロイア王プリアモスは、息子の死で悲嘆にくれます。


  その夜、ギリシア船団の陣地では、この日の勝利を祝い宴会が開かれます。アキレウスはパトロクロスの死体を清め、荼毘(だび)に付す一方、へクロールの遺体を戦車に結び付け、パトロクロスの墓の周りを引きずり回しますが、アキレウスの怒りは収まりません。その数日後、息子ヘクトールの死で悲嘆にくれていた父のトロイアのプリアモス王は、せめてもの慰めとして、息子の遺体をギリシア軍へ引き取りに行くことを決意します。夜の帷に紛れ、アキレウスの本陣に訪れることに成功したプリアモスは、彼の訪れに驚くアキレウスの膝にとりすがり、彼の両手に口づけし、息子ヘクトールの亡骸を自分に引き渡すよう嘆願します。


  己の命を顧みず、我が子の亡骸の引き渡しを請いに、敵陣へ訪れた老将の哀れを思うアキレウス。もう会えることのない父やパトロクロスのことがアキレウスの頭をよぎり、この老将に深く同情します。アキレウスは部下に命じてヘクトールの遺体を清めさせ、その遺体をプリアモスへ引き渡します。敵対している(というか敵対しているからこそ余計に)アキレウスの対応に感謝するトロイア王は、皆が眠る深夜、静かにギリシア陣営を出発し、息子の遺体と共にトロイア城内へ入城します。これによりプリアモスは、息子の葬式をトロイアの人々と無事に取り仕切ることができたのです。


  さて、「イリアス」(下)はここで終わりですが、ギリシア神話によるトロイア戦争には、この後のエピソードがあります。トロイアの猛将ヘクトールが亡くなってから、トロイアは徐々に劣勢に陥ります。一方、アキレウスには遂に運命の日が訪れます。ヘクトールの弟、パリスが男神アポローンに祈りを込めて放った矢によってついに撃たれ命を失います。息子アキレウスの死を悼み、女神で母でもあるテティウスをはじめとする神々とギリシア兵士が集まりアキレウスの埋葬を行います。


  お互いがなかなか状況を打開できない中、遂にギリシア軍は知将オデュッセウスの作戦を実行します。それは、中身が空洞になっている巨大な木馬を作り、その中に50人の勇敢な兵士を潜ませることです。トロイア側の兵士たちが油断し、その木馬をトロイア城内へ運んだ後、巨大木馬に潜む兵士たちが、すきを見てそこから飛び出し、トロイア軍に襲い掛かるというものです。


  ギリシア軍は、トロイア側を油断させるために全船団を海へ出し、近くの小島を隠れ場所にしてそこに待機します。トロイア兵は、ギリシア船団がいなくなった海岸に一体の巨大木馬が立っているのを見て不思議がりますが、トロイアのプリアモス王は、これは神への捧げものだから決して傷つけてはならず、トロイア城内へ運ぶことを命令します。 ギリシア船団がトロイアの海岸から跡形もなく去って行ったことで、長かった戦争がようやく終わったと思い込んだトロイア人たちは、祝杯をあげ浮かれ続けます。


  しかし、その夜遅く、トロイアの人々が寝静まった後、ギリシアの50人の兵士はそっと木馬を抜け出し、トロイア城内へ攻め入ります。時を同じくして、小島に隠れていたギリシア船団もトロイア海岸に再び上陸し、トロイア城内へ進攻。これによりトロイアは陥落。プリアモス王とヘクトールの幼い子が死に、王妃へカべーはアキレウスの息子の奴隷となります。戦争の発端であったメネラーオスの妻、ヘレネ―は、無事メネラーオスの元に戻りギリシア軍は、トロイアの戦利品を分け合った後、それぞれの故郷へ向けて船出をします。


  以上が、ギリシア神話による「トロイア戦争」のお話ですが、神話だと思われていたこのトロイア戦争、実は実際にあったことが19世紀後半のドイツ人、ハインリッヒ・シュリーマンの発掘努力によって判明しました。そして、紀元前1400年以降に、ギリシアとトロイアの貿易の利権から制海権をめぐる対立が原因でこの戦争が起こったらしいことが分かってきたのです。尚、この「イリアス」の題材である神話「トロイア戦争」は当時のギリシア人にとって馴染みのあるお話しなのでトロイア戦争の原因となる「3人の女神の黄金のリンゴの争い」とか、「トロイアの木馬」などのエピソードはこの「イリアス」に登場しません。そこでトロイア戦争の神話を全体的にやさしく理解したい人におすすめなのがイギリスの児童文学作家バーバラ・レオニ・ピカードさんが書いた「イーリアス物語」です。(下の写真) ギリシア文化や神話になじみがない読者でもわかるよう平易な文章でトロイア戦争の神話を再構成した作品になっています。 


  それからこの「イリアス」ともう一つの叙事詩「オデュッセイア」の作者(と言われている)ホメロスについては、いつ頃どこで生まれたのか諸説あるようですが、本書「イリアス」(下)には「歴史」の作者ヘロドトスが書いた「ホメロス伝」が巻末に納められていて興味をそそられます。


  余談ですが、このギリシア神話「イリアス」、そして「オデュッセイア」、日本のアニメ監督の宮崎駿さんに創作のインスピレーションを与えたのではないかと思わせる箇所があります。例えば、この「イリアス」(下)では、親友パトロクロスを殺され怒り狂うアキレウスが、トロイア兵を殺しまくり、トロイア城市へ向かう途中にあるスカマンドロス川をトロイア兵士の死体で埋めてしまうというシーンがあります。その川の流れを兵士の亡骸で堰き止められた、河神スカマンドロスが怒り、アキレウスをすさまじい水の流れと渦に巻きこみ殺そうとするのですが、これなんかは「千と千尋の神隠し」で幼い千尋が川の神ハクと出会うところとよく似ています。また、「イリアス」と共に有名な「オデュッセイア」では主人公のオデュッセウスは、長年の船旅の果てにたどり着いたパイアーケス人の国で若き女王に助けられますが、彼女の名が「ナウシカア」。「風の谷」のお姫様の名前にそっくりですね。