ユダの福音書を追え

         先に紹介した「ユダの福音書」(「原典ユダの福音書」ナショナルジオグラフィック社)。この写本の発見経緯、この写本で金もうけを狙う古文書業のビジネスマン、それに、この歴史的遺産に純粋な価値を評価し、その写本の保存・修復に努める学者たちの織り成す人間模様を詳しく伝えるノンフィクションです。

  

   歴史的遺産はどこへ帰属すべきなのか? これは、近年の民主化・グローバル化がもたらしてきた問題です。それがもともと存在していた国や地域か? また、戦時中においては、その遺物の価値を認識している戦勝国が敗戦国の遺産を勝手に自国へ持ち出すケースもあります。さらにこの遺産帰属権の問題は近年におこった問題だから、仮に国際法を制定するにしても、ある年度以前には適用されない、として過去の歴史的遺産は現在保存されている国に帰属権を認めるのか、、


  今回紹介する「ユダの福音書」写本の場合は、エジプトの民間人が第一発見者であり、その後、この写本は民間の古美術商から古美術商へ渡り(つまり、国という公的権限を持つ機関を通さないで、次々に所有者(個人)が変わってき、その度にこの写本で金もうけを狙う連中の欲望のため、なかなか表社会にその存在が知れ渡らず、その結果、保存は彼らの恣意に任されるままになり(その保存方法はロッカーや貸金庫のようなところへ保管するという歴史的遺物に対するものとしては、粗雑、かつ杜撰なもの)、その結果、美術保存における権威筋財団(スイスのマエケナス古美術財団)が所有件を持ち、修復を開始する時はほとんど壊滅・消滅する寸前の状態にまで劣化が進んでいたのです。この写本の場合、写本が入っていたツボを近所の農民が近隣の洞窟で見つけ、それを生活の糧のために地元の古美術商へ売り渡し、そこから何人かの所有者を経由してアメリカへ渡って行きました。


  世界的遺産の帰属権の問題に関しては、歴史的遺物の帰属先はその文化的遺物が存在していた当該国に帰属すべき、という原則が確立しつつある現代ですが、今回の話を読むと、その発見された状況、経緯、そして国によりその文化遺産の帰属先問題は、まだまだ曖昧なケースが多いことが良くわかります。


  また、パピルス紙に書かれた写本ですが、そのパピルスがそれまでの保存の粗雑さから部分的にボロボロに断片化し、ほとんど原型をとどめていない姿になっています。この写本の修復ですが、文字が薄くなっていて、おまけに原紙から破れていった紙片が数多く存在したため、最新の科学時術を使い、パピルス紙の断片のちぎれ具合やそのちぎれている方向が合う断片同士を合わせ、つなげていくという、胃の痛くなるような作業を何年もかけて行っていくのですが、この過程にもとても興味深いものがありました。さらにこの 写本が書かれた年代を特定するために加速器質量分析(AMS)をつかった「放射性炭素年代測定法」という方法が採用されます。今ではよく聞くこの年代測定法ですが、今回の場合、写本の検体からその成立を紀元220~340年(誤差60年以内)、と特定するのですが、その正確さには感心しました。


  そして、本書は最後に、この写本における一番大切な点、つまり「ユダの福音書」の内容の歴史的価値にも言及しています。「古代に激しく糾弾された『ユダの福音書』だが、今ではそれほど危険(*)には思われない。イエスを崇拝する作者の思いが、熱意とユーモアを交えた文章で伝わってくる。現代の新約聖書の四福音書と比べるとイエスの苦悩の度合いは小さく、楽しげに見えるだけでなく、イエスは笑ったりする。」


  キリスト教信者でない私も書くのも変ですが、この著者の意見には全く同感。ここには、人生に苦しみ苦悩する人々、民衆やイエスを抑圧するローマの警護官も登場しません。弟子たちに微笑みかける(笑う)イエス、そして、信頼と尊敬に満ちたイエスとユダとの師弟関係。読んでいてホッとするような、微笑ましささえ感じるものでした。


  著者は、このユダの福音書を弁護して次のように語ります。「『ユダの福音書』の主張に納得できず、神への冒涜とみなす読者もいるだろうが、この福音書の作者がユダに歴史上の新しい位置づけを与えていることは否定できない。」、、と、むしろ現代のキリスト教信者の信仰理解を助長する一助になるのではないか、とさえ語っています。


  この福音書の最後でイエスは忠実な弟子であるユダに語ります。「皆を導くあの星がお前の星だ。お前の星、ユダの星は天に光輝くだろう。」夜空の星々を見上げながらイエスがユダに語りかける情景が容易に想像できる、とても素晴らしいシーンだと思います。この後に続くユダに待つ苦難を思うと、感動的ですらあると思います。ところで、イエスが言及する「星」ですが、著者によるとこれは明らかに古代ギリシア哲学者・プラトンの「ティマイオス」の影響を受けていると言います。「(グノーシス主義全般に言えることだが)作者がギリシャの偉大な哲学者プラトンの著作に親しんでいたことは、ほぼ間違いない。『ティマイオス』の中でプラトンは、人それぞれが独自の星(魂)を持つと言っている。」


  個人的には古代ギリシア・ローマの歴史を読んでいる自分にとって、このプラトン哲学からキリスト教への思想伝播(または双方の親和性)、または古代ギリシア哲学をローマ帝国文化(キリスト教)が吸収・包括していったという事実は、これまで読んできた大きな歴史の流れの一端に触れたようで、感動的を覚えました。


  歴史的遺物から一攫千金を狙う人間の欲望、自分が最初にこの遺物を紹介したいと考える学者のプライドと権威主義、そして、純粋に歴史的遺産精神的な価値を守ろうとする学芸員。。それら登場人物が織りなす複雑な人間模様がなんとも愚かでもあり、滑稽でもあり、しかし、とても愛おしいとも思ってしまう。そしてその遺産に対する歴史的な検証も丁寧に紹介した、すばらしいノンフィクションに仕上がっていると思います。

(*)グノーシス派(主義)というのは、1C~4Cまでの存在した初期キリスト教の一派です。この時代には今でいう「マタイ」「マルコ」「ルカ」「ヨハネ」の4大福音書の他、いくつかの福音書が存在し、初期キリスト教に属するいくつかの宗派はそれぞれの福音書を信奉していたようです。その一派であるグノーシス派は「ユダの福音書」を信奉していました。そして、4C頃までに今に残る正統キリスト教の正典(上記4つの福音書)が整えられ、その過程でグノーシス派はその「正統派」争いに敗れ、異端とされ、その後の歴史からは抹殺されます。