〈民主〉と〈愛国〉戦後日本のナショナリズムと公共性
小熊英二さんによる1千ページにも及ぶ長編大作です。部屋に積読状態にあって、いつか読もうと思っていたのですが、この年末年始はいつもより長いお休みだったので、この機会に思い切って挑戦しました。読了後の感想は「圧倒的」の一言。
戦後昭和の日本国民の社会思想、日本社会の動きを丁寧に、かつ詳細に説明しています。しかし、だからといって著者の論点があいまいな総花的(百科事典的)になっているのでは決してなく、著者の視点がしっかり全編に光っていて、だからといって無理に主張を押し付けるのではない、、上手く言えませんが当時のいろいろな論点を一つ一つ丁寧に解説し、考察していくという著者の良識と博学を感じさせる「日本の戦後」本の中でも一際光る存在感のある作品になっていると思います。「戦後」とか「昭和」という時代が次第に遠くなっている現代において、ここまで深く日本の終戦後と昭和の時代を考察している学者が存在することが確認できたことがまず素晴らしい発見でした。
では、本書の著者/小熊 英二さんの紹介から。「小熊 英二(おぐま えいじ、1962年9月6日 - )は、日本の社会学者、慶應義塾大学教授、ギタリスト。専攻は歴史社会学・相関社会科学。東京大学農学部卒業。ナショナリズムと民主主義を中心とした歴史社会学が専門。確固たる問題提起と膨大な文献にあたる緻密な論証で高評価を得る。著書に『単一民族神話の起源』(1995年)、『生きて帰ってきた男』(2015年)などがある。」(Wikipedia)
博学であり、かつ終戦後の記述が詳細なので、つい高齢な学者さんをイメージしていたのですが、実はさにあらず。西暦1960年代生まれの方でした。実はこの著者・小熊さんのお父さんは第二次大戦の終わりにソ連によるシベリア抑留の経験があります。彼は終戦間近の19歳の時に日本軍に徴兵され、満州へ配属され、その後すぐに終戦になったのですが、侵攻してきたソ連軍によってシベリア抑留の憂き目にあい、収容所での4年間の飢えと過酷な労働を体験。戦友も失いますがなんとか帰国を果たします。
その後、彼は国の政策に御弄される弱者のために社会活動に積極的にかかわるようになります。本書では、元日本兵として日本軍のために戦った中国人が「日本国籍ではないから」という理由で、戦後シベリア抑留者に支払われるべき慰労金を不支給にした国の決定に対し、その当事者の中国人と共に起こした法廷闘争が紹介されています。著者の小熊さんは、国家間の戦いに翻弄される個人の無力さと、国家権力の無情さ、、そして、そういったものに義憤を感じ正義を求めて戦ったお父さんの言動を幼い時から見て育ったのでしょう。この「父」というフィルターが、英二さんに戦後の日本思想について深く考察する大きな視座を獲得するきっかけになったのであろうことは想像に難くありません。
さて、ここから具体的に本書に対する感想に入りますが、まず、自分は(一応は)戦後生まれなのに「戦後」という日本社会について無知だった(勉強不足だった)ということ。また、(私より前に生まれた)すべての大人たちを戦争体験派と同様に、一くくりに考えていましたが、実は大人たちにもそれぞれの世代があり、例えば単純に「戦後派」と言っても、昭和一桁、二桁に生まれた世代、もっと詳しく言えば、戦争前に生まれて成人し戦争を体験した世代、戦中に子供として成長し、国の大義を押し付けられて育った世代、そして、その後の、正に終戦後の混乱期に生まれた世代(「つまり「戦争」という混乱期前、「戦中」、そして、「戦争後」というように、生まれた時期)により「戦争」や「戦後」に対する意識が全く違っていて、しかも、その「溝」は埋めがたいほどの意識格差を生んでいることがわかりました。
例えば、戦前派の1914生まれの政治学者・思想家の丸山 眞男(まるやま まさお)さんの世代は、日本が軍国主義に染まっていく言論統制の時代(軍による拷問や投獄を恐れ)自分たちが声を上げて戦争に反対することをしなかった(できなかった)ことに深い自責の念を持っている世代です(丸山さんは太平洋戦争勃発時、27歳)。この戦前派の世代は、終戦後に、「戦後派」に戦争の悲惨さや戦争批判を強く訴えていくのですが、それは、若い世代から見ると、居丈高に自分たちへ主張を押し付けている印象を与えたのです。若い世代にとっては、「戦争はあななたち(大人)が勝手に始めたもの。なのにどうして自分たちにああすべき、こうすべきと押し付けるのか。それよりも、あななたち大人は、戦争を始めた(止められなかった)反省をすべき。」ということなのでしょう。(しかし、押しつけともとれる戦前派の後世世代への戦争反対の意見表明は、裏を返せば、「自分たちが戦争を止められなかったという自責の念」と、「だからこそ二度と戦争は起こさせない、戦争は若い世代には繰り返して欲しくない。」という彼らなりの決意表明なり、真摯な後世への申し送りであったのかもしれません。)
戦前派の知識人たちの中には、そいった自分たちの思想転換を自ら「変節」だととらえて、自問自答し苦悩する人々も存在していました彼等だれもが、戦争を止められなかった、戦時中は何も言えなかった、という自責の念を誰でも多かれ少なかれ共有し、しかも、それを若い世代に伝える適切な言葉も欠いて(自分たちの心情をうまく表現できず)いた。しかし一方の若い世代は、戦争は我々より上の世代の責任である、という論調で大人たちを一方的に批判する、という構図が戦後の上の世代と下の世代に決して超えることのできない深い溝としてあった、ということが良くわかりました。そういった戦争に対する世代間の「意識の格差」「壁」といったものは、戦前派、戦中派、戦後派のそれぞれの間に存在していた(いる)のです。
例えば、本書では戦前派の丸山 さんと戦中派の吉本隆明さんとの思想対立が挙げられます。丸山さんは前述のとおり1914年(大正3年)生まれ、吉本さんは1924年(大正13年)生まれ。二人とも大正生まれですが、彼らが第二次大戦を迎えたのが、それぞれ27歳、17歳の時です。丸山さんは20代後半に差し掛かる頃に「戦争」を迎え結局、それに抗うことはしなかった(憲兵が怖くてできなかった)。一方、青年期を戦時中に迎えた吉本さんは、「年上の大人たちが起こした戦争に自分の青年期が翻弄されてた」、という強い思いがあります。この二人にとって、10年という「世代間ギャップ」は、深い溝であり、また表現を替えれば、彼らの思想は、「ボタンの掛け違い」のように論点がかみ合いません。
本書では、彼ら二人の社会思想家の他、戦前派の大塚久雄、戦中派の三島由紀夫、竹内好、橋川文三、戦後派の大江健三郎、江藤淳、さらに鶴見俊輔、小田実等各氏の思想・活動が詳述されています。彼ら思想家の考えを理解するには、その読者も彼らの人生、さらには彼らの使う言葉の意味を理解する必要がありますが、小熊さんはそいうった点にも配慮し、丁寧な解説を加えることで、令和時代に本書に初めて接する読者にも当時の思想家たちの考えが理解できるようにしています。
これら戦後思想家に一貫して言えることは、戦中派が戦前派に対して、戦後派が戦中派に対して行った「年少世代による年長世代への批判」が特徴です。その理由としては、(前述の通り)年少世代の考えの根底には、戦争責任はその戦争を始め、また回避できたはずの戦争体験世代にある、とする考えがあり、また、戦争から世代が遠ざかるに従い、戦争を忘却し、戦後の経済復興を謳歌・享受する傾向が顕著になってくるからだと思います。
また、日本の戦後の「民意」や「民主主義」についてですが、終戦直後の連合国軍最高司令部(GHQ)の戦後政策が、当時の日本を取り巻く地政学的要因により、首尾一貫性がなくなり、結果として、日本独自のどことなく頼りなく、あいまいな民主主義ができあがった、ということも感じました。たとえは良くないですがイギリスのパレスチナにおける戦後政策とどことなく似通っているところがあります。例えば、GHQは、当初日本の非武装化を徹底するため、現日本国憲法の原案をやっつけで作り上げ、その中に無理やり武器を放棄させる「平和条項/第9条」を含め、当時の日本政府に半ば強要しなんとか制定(*)させたかと思いきや、中国大陸でひとたび共産主義が巻き起こると、一転し「平和でなく銃を持て」とばかりに警察予備隊(後の自衛隊)を創設させます。一方、経済成長を加速させたい日本の与党政治家は戦争中被害を与えた周辺国との講和を急ぎ、日米安保条約を締結。その後の日米安全保障条約改定時にも、国民的反対運動が盛り上がる中、その民意を十分に聞かず強引に条約改定を決行、、と、このようなその時々の国際情勢や、与党政府の強引な政局運営などで、結果的には日本の「民主主義」というのは、国民の意識が「一本のまっすぐに育った大木」でなく、なんとなくいびつで、あいまいなもの(「長いものには巻かれろ」的)になってしまったのだと思いました。
「日本人の長いものには巻かれろ」と言えば、良く言われる日本独自の「組織における責任の所在の曖昧さ」的思考回路の発芽・原点も敗戦時に見られました。敗戦直後というのは、それまで「戦争肯定」や「鬼畜米英」など反米的思想教育が子供たちになされていましたが、その教育も含めた日本人すべての価値観(社会観念、常識、制度、秩序含め)が、180度転換してしまった、正にそれまでの社会文明の崩壊でもあったのです。 そうして戦争中は、愛国だの天皇陛下万歳などと言って生徒に檄を飛ばし「鬼畜米英」を叫でいた小・中学校の先生たちも、終戦直後、進駐軍が日本にやってくると態度を一転し米国礼賛。自分たちの町や村にアメリカ軍人がやってくると手のひらを返したように熱烈歓迎し、今度はアメリカ万歳、アメリカ民主主義万歳と一斉に生徒たちへアメリカ文化礼賛を教育しだしたのです。 これはGHQが日本人を親米的にする教育政策の一環でしたが、いかんせん人材不足のため、その親米教育指導をやむなく「鬼畜米英」を叫んでいた小・中学校教師にそのままやらせたのです。しかし、このように、上の人が変わるたびに言うことが変わる大人たち(先生たち)の態度を当時の子供たちは冷静に観察していたのでしょう。今度は、高度経済成長の昭和時代に彼らが大人になり、官庁や会社といった組織で指導者になると、自分たちのかつての先生と同じように、トップが変わるごとにそれまでの主張をころころ変えてしまう「長いものには巻かれろ的思考」を、組織文化としてその中に定着させていきます。。
今でもよくニュースで見聞きする日米安保条約の賛否、沖縄米軍基地問題、憲法第九条論争、、など日本独自のさまざまな問題がこの「終戦後」から始まったということが実感できるよう丁寧に当時の問題点を掘り起こした(ある面、詳細過ぎて一読しただけでは消化不良に陥るのですが)著者・小熊さんの物書きの良心に頭が下がる思いでした。本の帯に「私たちは『戦後』を知らない」と宣伝文句が書かれていますが、全くその通りだと思いました。さらに、本書を読み進めていくうちに、本書の中の言葉や内容が、自分が子供の頃、テレビのニュースや新聞などで大人たちが盛んに論争していた当時の内容とリンクし、当時の昭和という空気感を思い出し、とても懐かしい感じも持ちました。
今や死語となった「愛国」「平和」「民主主義」。。こういった国の将来を憂うような言葉は現代の成熟社会で育った令和の若い世代からは聞こえてこないように思いますが、でもこれは今の日本の若者に限ったことでもないようです。実際本書の中で思想家の小田実さんのエピソードが紹介されていますが、彼は1958年、アメリカ留学(フルブライト留学制度により渡米)し、当時のアメリカ学生の政治観にびっくりします。彼はアメリカ人の若い女性と交際し、彼女から詩人が詩を朗読するカフェに誘われます。この時彼女が次の言葉をつぶやきます。「こうやってコーヒーを飲みながらみんなの中で詩を聞いている時ほど、私が心にやすらぎを覚え、孤独感から解放される時はない。」 この時、小田さんはそのカフェにいる若者を「気の弱い逃亡集団」とみなします。大阪空襲を体験し、多くの死者を見た小田さんと、戦争といえばベトナム戦争などの国外で起こっている、一種の国際政治の延長と考える彼女との間には埋めようもない隔たりがあったのです。「彼らにとっては『政治=国際政治』であり、(戦争とは)『自由主義』と『共産主義』の陣取合戦であり、彼らはゲームの見物人と同じであった。。。」 今の日本の若者も、幸か不幸かわかりませんが、彼女と同じように法整備が行き届き、社会インフラが整備され、物があふれる世界に育った世代です。いつの時代、どの場所においても、人間というのはしょせんは周囲の状況により思想・思考。行動が支配され、広い視座を持つことのできない、想像力・共感力の乏しい存在なのかもしれません。
モノがあふれ豊かになった日本社会。。しかし、我々も、我々の社会も一夜にして突然何もないところからタケノコのように育ったわけではありません。今の日本は我々の祖父母、父母世代の人々の努力でできあがった結晶だと思うのです。そして、我々の祖父母や親の世代が、彼らが若者だった時一体、どのように考え、行動していったのか。。そして、試行錯誤の中から彼らはどうやって今の日本を創っていったのか。。更には、今、社会で第一線にいる我々は彼らの遺産をどう受け継ぎ、それをどのように後世の人々に継承していくのか、、、ささやかながら本書はそれを考えるきっかけになると思いました。(でも我々の祖父母や父母の世代の人々はホントに戦後の復興のために身も心も粉にしてがんばったんだなあ、、と今更ながらですが、尊敬と感謝の気持ちも同時にわき上ってきました。)
(*)この時の経緯があるため、現・自民党の党是の一つに「現行憲法の自主的改正」があります。たびたび自民党党首が「憲法改正」を口にするのはそのためです。
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