新平家物語(五)~(八)
1167年、平清盛は武家として初めて太政大臣となります。「太政大臣」という役職は、律令制における「太政官」の長であり、実質的に国のトップです。平家は一族の繁栄に力点を置く政治を行い、民衆のための政策には無関心でした。このため平家の一人が口走った発言は、「平家にあらずんば人にあらず」という平家の傲慢を示す言葉として社会に広がり、これまで皇室との血縁で権力を誇ってきた藤原氏は、かつての地下人であった平家に皇室との関係を踏みにじられたという思いを強くしていきます。このような世間の風当たりに対し、平家は一族の悪口を言う人々の取締を強化します。
中国・宋朝との貿易を拡大の野心を持つ清盛は、福原(現在の神戸)開拓に専念する為、わずか3ヶ月で太政大臣を辞任し、政界から表向きは引退。そして、嫡子・重盛が東海・東山・山陽・南海道の治安警察権を委任され、実質的な後継者の地位につきます。また、清盛は天皇家と外戚関係を持ち、孫の安徳天皇の外祖父としてさらに権力を強化していきます。しかし、清盛の勢力拡大が自らの政治基盤を脅かしかねないことを懸念する後白河法皇との関係は逆に悪化します。そして、ついには、法皇を中心とした反清盛派の清盛襲撃の陰謀が発覚(鹿ヶ谷事件)。清盛はこの反勢力を一掃し、後白河法皇を幽閉(治承三年の政変)し、後白河の院政を完全にストップさせ、政権を独裁します。
一方の源氏一族。頼朝は、伊豆国・蛭ヶ小島(ひるがこじま)(*)に配流となりましたが、実は、伊豆地方は源氏勢力が強かった地域で、頼朝の乳母・比企尼の娘婿である安達盛長、河越重頼、伊東祐清等が側近として頼朝に仕えます。この流刑中に成長した頼朝は伊豆の豪族・北条時政の長女である政子と恋仲となり婚姻関係を結び長女・大姫をもうけます。(頼朝が政子と婚姻関係を結んだのは、今後の出世の足掛かりを義父・時政に求めようという思惑もあったようです。)
また、後年頼朝と並んで、源氏勢力の中心となる牛若丸(後の義経)は、11歳の時に鞍馬寺(京都市左京区)の覚日和尚へ預けられ、稚児名を遮那王(しゃなおう)と名乗り勉学に勤しみますが、成長するにつれて「平家が父の仇である」ことがわかってくると。夜な夜な近くの僧正ガ谷へ行き、山伏たちと荒修行に励むようになります。この荒修行により、小柄でほっそりしていた遮那王の精神や肉体も鍛えられていきます。そして人々は、この夜間に活動する山伏たちを「天狗」として恐れるようになりますが、この遮那王や山伏の活動が平家方に知られるところとなり、遮那王は自ら「元服」式を執り行い髪型や姿を変え、陸奥国(むつのくに)へ向かうことを決めます。
「陸奥国」とは 当時の律令制によって区分けされていた国で、現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県と秋田県の一部を合わせた国で、した。さらにその陸奥の国を当時支配ていたのは、奥州藤原 清衡(ふじわらのきよひら)。彼は朝廷からの信頼を得るために絶えず砂金や馬などの献上品や貢物を欠かしませんでした。そのため、朝廷も奥州藤原氏を信頼し彼らの奥州支配を容認していたのです。また、彼は奥州18万騎と言われた強大な武力と政治的中立を背景に独自の政権と文化を確立することに成功していたのです。
陸奥国へ向かう遮那王の一行は、関東から東北路へ向かいますが、ファンサービスのせいもあるのか、関東付近では、現在の秦野、相模原(神奈川県)、世田谷、渋谷、日比谷、墨田川(東京)、印旛沼(千葉)あたりを通過していくエピソードを現在の地名も織り込み丁寧に描いているのが微笑ましくなります。この関東の地において義経一行は、後年の平家との戦い(一ノ谷の戦い、屋島の戦い、そして壇ノ浦の戦い)において重要な働きをする部下となる若武将たちとの出会いと別れ、そして再会を約しながら一路陸奥の国へ向かいます。いったんは藤原清衡の庇護のもとに落ち着いた義経ですが、清衡の息子たちは父・清衡の義経に対する厚遇に嫉妬します。京の都にいる母への慕情もつのる義経は、陸奥の国を去り、京へ向かいます。そして、義経は京において後年の彼の強力な部下となる武蔵坊弁慶との出会いを果たします。
このように、平家の奢った治世の裏側で、源氏勢力が徐々に伸長していく中で、治承4年(1180年)5月、後白河天皇の第三皇子である以仁王(もちひとおう)が挙兵し平家を脅かします。平清盛の嫡子、平重盛の嫡男である維は大将軍として叔父・平重衡と共に反乱軍を追討すべく宇治に派遣されます。この反乱は同行した維盛の乳母父で侍大将の伊藤忠清ら平家側の奮戦により鎮圧されますが、この乱は反平家勢力(源氏勢力)は活気づきます。同年9月、源頼朝ら源氏が再び挙兵。これに際して維盛は東国追討軍の総大将となります。東海道を下る追討軍ですが、出発の遅れや、夏季の穀物の凶作などで食糧難に見舞われ、進軍途中での兵員増力は思うようにいかず平家軍の士気はあがりません。その平家の状況に付け入ろうと、近隣国の源氏勢は次々と挙兵。そして同年10月1、富士川を挟んで武田軍(源氏勢)と対峙する平氏軍ですが、この時、すでに時の勢いは源氏側にありました。約4千騎の平家運ですが、逃亡や休息中の敵軍への投降などで、兵員1千から2千騎ほど。鎌倉の源頼朝も大軍を率いて向かっており、もはや平氏軍に勝ち目はありませんでした。維盛は戦闘継続を主張しますが、伊藤忠清や残存兵員も撤退を主張。更に富士川の陣からの撤収命が出た夜、周辺に集まっていた数万羽の水鳥がいっせいに飛び立ち、その水鳥の羽音を敵の夜襲と勘違いした平氏軍勢は慌てふためき、総崩れとなって敗走、維盛はわずか10騎程度の兵で命からがら京へ逃げ帰りました。
勢いづく源氏ですが、この後源氏側の中でも際立った武勇を馳せたのが美濃の国・木曽で勢力を拡大した源義仲(木曾 義仲)です。彼の挙兵は以仁王の乱の時で、義仲は乱が鎮圧された後も、都から逃れた彼の遺児を北陸宮として擁護します。1183年4月、平氏は義仲が脅かす(京の兵糧の供給地である)北陸道の安定を図るため、平維盛を大将として北陸に出陣します。京を出てしばらくは快進撃を続ける維盛軍ですが、義仲は今井兼平に6千の先遣隊を率いさせ、平氏軍先遣隊が陣を張る越中国の般若野を奇襲します。この奇襲により平家軍は越中・加賀国の国境にある礪波山倶利伽羅峠へ軍を退けることになるのですが、平家軍には予期しない運命が待っているのです。。
この新平家物語の4巻から8巻で特に印象に残るのは、著者吉川さんの源義経の描き方です。平家により幽閉の身であった義兄の頼朝とは違い、彼の場合は、世を忍びながら少年期を山奥の寺で荒っぽい山伏たちと精神力・体力強化の修行に明け暮れ日々の生活を送るという感じで、また、元服をすませてからは、平家網の監視の目をくぐり抜けながら、関東から東北・陸奥の国へ向かう旅に赴き、その途中で後年の部下となる大切な人々との出会い・別れを繰り返し、自己を成長させていくその過程をとても丁寧に描いています。9巻以降も読めばわかるように、吉川さんは、どちらかというと、官僚的で、なんとなく人間的に冷たい頼朝よりも義経の描写に魅力を感じているように思います。
後半の平家との闘いで先陣を切る役割は常に義経ですし、その義経を支えようとする弁慶を始めとするいわゆる「チーム義経」の戦いにおけるリーダーと家臣の一体感はとても魅力的です。一方、鎌倉行政府から源氏を主導する頼朝は、戦場へ赴くことはなく、妻・政子のアドバイスのもとに指揮命令を行使し、肉親や部下にあまり信頼を置かず、どこか距離を置きながら冷徹に源氏リーダーとしての主導権を発揮していきます。
*蛭ヶ小島(ひるがこじま)は、「島」とついていますが、陸上の地名で海上にある島ではありません。
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