新平家者物語(九)~(十二)

      それまでこの世を謳歌していた平家ですが、その後の没落へ向かう分水嶺となった戦いが、「倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦い」です。倶利伽羅峠は、現在の富山県と石川県の境にある砺波山(となみやま)にある峠です。北陸方面の安定を図るため平維盛をリーダーに10万とも伝えられる大軍を編成した平家です。順当に考えれば平家が勝ってもおかしくない戦いでした。。。


  しかし、この平家・維盛軍はいくつもの問題を抱えていました。10万におよぶ軍隊なので当然、いくつかの分隊に編成されますが、その各隊の将は先陣、後陣を決めることもなく、それぞれが思い思いに我先に進軍し、遠征先で兵糧・物資に困った際には、場当たり的に近隣の家に押し入って必要物資・食料を徴収していったのです。この後も、平家は源氏側といくつか大きな戦を行い、劣勢を挽回しようと試みますが、読んでいて興味深いのは常に、平家側常に戦況においては、有利に戦っているのですが、結果をみるとが常に惨敗を喫っしています。先にも書きましたが、戦においては、腕に自信あるものなら誰よりもはやく戦場に赴き、一番槍(一番刀)、つまり一番手柄、を立てたい、と思うのは武士の心情。そして、これらの猛者を統率するのは最終的には維盛だったはずですが、吉川さんの描き方を読む限りでは、彼は、それまで平家が築いた平安の世に慣れきって、(換言すれば)現代の官僚のようにポリティカルな面では経験を積んでいても、実戦に必要な武芸・武術の習得に関しては少し疎かったようです。そのためか、(兵法・戦術とか、戦う前の準備・物資供給などにはあまり重きを置かず)その場、その場の戦況で戦いに臨んでいた節があります。もしかすると、本来、命を懸けて一緒に戦場で戦う部下や兵士の扱い方も官僚的で事務的なものであったかもしれません。また、それまでの平家は、野蛮を排し、優雅な雅やかな宮中の生活様式を吸収しすぎのかも知れません)


  それに対して木曽義仲と木曽義仲亡き後、平家・維盛に対峙する義経は、幼くして親元から離れ、山岳育ちの荒くれ者の大人を相手に育った野武士的なたくましさを持つ武人。特に倶利伽羅峠の戦いに限って話しても、義仲は北陸の山の中で育った武骨な性格。戦いにおける部下の長所・短所も見抜き人材適所に配置し、人心掌握にも長けていたのだと思います。さらに平家・維盛軍との戦い場所は、義仲が育ったホームグランドの地元の山林地帯。戦う場所の熟知(地の利)という点でも義仲に分があったのだと思います。


  さて、話を「倶利伽羅峠の戦い」に戻します。北陸方面へ進軍中の維盛軍は、5月11日、加賀・越中の国境にあたるこの峠で態勢立て直しのため、陣を張ります。ですが、この平家の打倒を虎視眈々と狙う義仲は、平家軍が寝静まった夜間に夜襲を仕掛けます。大きな音を立てながら突進してくる敵軍に浮き足立つ平家軍。しかし退路は敵陣に抑えられています。闇討ちにあい、地形にも疎い平家軍はパニックに陥ります。兵士たちは一目散に敵がいない方角へ我先に退却しますが、しかしその先に待っているのは、倶利伽羅峠の断崖です。平家軍の将兵は、次々に谷底に転落し、谷底には平家兵士の屍が見るも無残に積み重なって行きます。義仲追討軍10万の大半を失った平家は、義仲追討軍10万の大半を失い、平維盛は這々の体で京へすることになるのです。。


  この倶利伽羅峠の勝利により木曽義仲は京都まで一気に進軍。遂に長年の夢であった上洛を果たします。一方の平家一族・維盛軍はもはや戦力不足のため、京に侵入した義仲軍相手に防戦のしようもなく、とりあえず安徳天皇と三種の神器と供に京から西国へ落ち延びます。当時、日本西国には平家の援軍が多かったため、西国で形勢立て直しを図ろうと考えたのです。(しかし、悲しいかなここから平家の没落が加速度的に進み、平家一族が再び京へ戻ることは叶わぬ夢tと終わったのですが。。)


  平家を京から追い出した木曽義仲にとっても、その後の命運は穏やかなものではありません。なにしろ、それまでは、山の中の田舎侍として武勇をふるっていた義仲ですが、京は手練手管・深謀遠慮にたけた後白河法皇、そして宮中を支配する貴族たちが支配する世界です。宮中へ出向く際もその田舎的な所作やぶしつけな物言いで、宮中の反感を買う義仲です。後白河法皇からは連年の飢饉で荒廃した都の治安回復を期待されますが、なにせ武勇だけでここまで出世してき義仲にとって都の治安回復という政治・政策は未知の領域です。さらに義仲は、これまでの田舎の女性とは対照的な、京の雅やかな趣味に洗練された宮中女性に熱をあげるようになり、これまでの義仲の武骨で荒々しい精神は骨抜きになっていきます。都の治安回復は思うようにならず、食糧事情も悪化。さらに皇位継承への介入などにより後白河法皇とは不和となり、ついには後白河法皇後を幽閉して征東大将軍を名のりますが、結局は源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれその生涯を終えます。


  この、京における義仲と源氏勢・後白河法皇の内輪もめの間、都落ちした平家は急速に勢力を挽回していきます。平家の親方・清盛が一時期遷都を目指した福原(神戸)へ行き、先祖への奉納を行い、一の谷へ移動します。当時、西日本の瀬戸内海周辺は平家の牙城ともいえる水軍勢力が制海権を握る地域であり、さらに一の谷は自然の要害でした。再上洛を早期に実現したい平家はこの地で勢力回復を伺います。この一の谷で平家へ後白河法皇からの使者が訪れます。源平双方への和睦勧告です。この法皇からの和睦勧告で平家側に気の緩みがでてしまったのでしょうか、この平家の気の緩みに義経軍が乗じ、平家へ不意打ち攻撃をしかけるのです。この不意打ち攻撃に動揺した平家一族。倶利伽羅峠の敗走を再現するようにまたも算を乱して西方へ敗走するのです。。


  吉川さんも書いていますが、京都からの都落ちの時も、また一の谷の戦いの時も当時、実力で上だったのは平家だったのです。だからこそ、平家が、清盛が天下を取った時のように、皆で一致団結して気を引き締め、源氏に向かっていけば決して負けることはなかったと思うのですが、でもやはり「平家にあらざれば人にあらず」、と豪語した平家。この時点でもどこかに驕りや油断があったのでしょう。。(例えば後白河法皇の和睦の使節が来た時も、その和睦提案が策謀家で決して己の真意を見せない法皇であることに警戒すれば、安易に信用したら危険、と思うはずです。)こういったところに平家滅亡の必然性があるように感じました。

Hisanari Bunko

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