資本論(1)~(9)

       読書を続けていて、いつか読みたいと思っていたこのカール・マルクスによる大著。この夏、例年に比べ夏季休暇が少し長いこともあって挑戦することにしました。


  マルクスの「資本論」というと、共産主義を肯定し、資本主義を批判するような内容のものと思われる人も多いかも知れませんが、意外なことに社会主義や共産主義に言及しているところはほとんどなく、むしろ資本主義中心に深い考察がなされています。ただし、その立場は(アダム・スミス他の経済学者とは違い)、資本主義を肯定するのではなく、資本主義を非人間的な利益(資本)の増殖装置のような無機的な仕組みとして説明しています。そしてその主張を補足するために、当時のイギリスなどの国の炭坑や木綿工業における労働者(子女含む)を酷使する12時間以上にわたる長時間労働や劣悪な労働環境、職場の近隣に併設される労働者が住む宿舎の粗末で狭い施設など当時の役人や医者からの報告にも言及しています。


  まず、カール=マルクス( Marx,Karl Heinrich 1818~1883)についてです。彼 は、ドイツのラインラント地方生まれ。1842年頃からケルンでジャーナリストとして『ライン新聞』編集長となって、当時のプロイセン王国の政治批判運動を展開します。その後、取締まりが厳しくなったため、パリに運動の活路を求めます。パリで次第に社会主義・共産主義に傾倒していき1848年、盟友エンゲルスと共に『共産党宣言』を発表。パリでも運動の取締まり強化のため、1849年(31歳)の時に渡英。以降はイギリスを拠点として活動します。ロンドンに亡命後、彼は大英図書館に通って自らの思索・研究を続け、1850年 - 1853年頃『ロンドン・ノート』(24冊)を書き上げます。この頃の研究の大半は経済学についてのものですが、その他、国家学、文化史、女性史、インド史、中世史、また時事問題など、様々な分野の研究に没頭していたようです。


  マルクスが経済学批判に関する執筆にとりかかったのは1857年からで、特に『資本論』の草稿の大半は、1863年から1865年末までに書かれ、マルクスはこの草稿を全3部にまとめます。しかし、これは自分の問題意識を拡大・深化させたメモ群のようなもので、その内容をまとめ、構成・再構成し、文章化して一つの作品にする作業は後回しになったのです。そして、マルクスはその役目を、盟友エンゲルスに託します。Wikipedia によると「この作品は1867年に第1部が初めて刊行され、1885年に第2部が、1894年に第3部が公刊された。第1部は、マルクス自身によって発行されたが、第2部と第3部は、マルクスの死後、マルクスの遺稿をもとに、フリードリヒ・エンゲルスの献身的な尽力によって編集・刊行された。」 つまり、マルクスが自作品として書き上げたのは第一部のみで、のこりの第二部と第三部はマルクスの草稿やメモ集をエンゲルスが、マルクスの残したメモや草稿の空欄を埋めていく(補足・説明していく)ようなやり方で第二部、第三部を執筆・完成させていったのです。(岩波文庫の「資本論」では、1巻~3巻が原本の1巻、4巻~5巻が同2巻、6巻~9巻までが同3巻に対応しています。)さらに、マルクスは悪筆(字が汚いこと)で有名で、現存する実際マルクスの遺稿の写真を見ると、白いページに細かい字をぎっしりつめこむ書き方をしています。エンゲルスもマルクスの遺文を理解するのに相当苦労したということです。


  盟友・エンゲルスも彼の筆記を読むのにしましたが、実はこの「資本論」。現代の読者も読むには苦労するかもしれません。なぜならこの作品、難解な内容として知られているからです。まず、彼独自の比喩的表現が至る所にちりばめられています。文章の表現も哲学的・抽象的なところがいたるところみられますし、説明には堅い言葉もが多く、さらに彼の書く文章自体、点(、)で文章をどんどんつないでいき、なかなか文章が途切れません。これもマルクスの癖なのかもしれませんが、とにかくとっつきにくい文章の塊と言ってもいいと思います。

 

  例えば「資本論」(四)(岩波書店)の P72 に次のような文章があります。 「たとえば G´ は 110ポンドで、そのうち100は元本(G)、10は剰余価値(M)であるとしよう。110ポンドという額の両構成部分のあいだには、絶対的等質が、したがって、概念的無差別が支配している。どの10ポンドをとってみても、それが前貸元本100ポンドの10分の1であろうと、元本を越える10ポンドの超過額であろうと、つねに総額110ポンドの11分の1である。ゆえに、元本額と増加額、資本と剰余額とは、総額の分数として表現されうる。われわれの例では、11分の10は元本または資本を、11分の1は、剰余額を形成する。かくして、その貨幣表現における実現された資本は、その過程の終局において、資本関係の無概念的表現をもって現れるのである。」というのがあります。これなんかも「G´ は 110ポンドで、そのうち100は元本G、10は剰余価値 Mであるとしよう。その場合は、元本額と増加額、資本と剰余額とは、総額の分数として表現すると、11分の10は元本または資本を、11分の1は、剰余額を形成する。」という感じにまとめた方がスッキリすると思うのですが。。またこの中でも「絶対的等質」「概念的無差別」「無概念的表現」など使ってますが、これらの単語が何を説明しているのか具体的に示されていません。すべてがこのような感じなので、読み手の方は、キーワードが何か?  比喩的表現は具体的に何を指しているのか? 常に前後の文を確認・推測しながら読み進めることになります。


  このような困難さはある作品(自分の読解力のなさをついマルクスさんのせいにしてしまいましたが)、でもやはり、歴史に残る大著であることにはまちがいありません。実は自分の理解不足を補うため、「マルクス資本論」の解説本、「100分de名著」/マルクス『資本論』編」(著者は斎藤幸平さん)(*1)も読んだのですが、やはり、解説本だけあってこの齋藤さんは、実にマルクスの言わんとするところを的確に理解し、現代にもマルクスが批判した資本主義の特徴が活きていることを論じていきます。


   彼は、マルクスは資本を運動にたとえ、資本主義とは「絶えず価値を自己増殖していく運動であり、資本家も労働者も価値増殖運動の歯車の一つである。」と定義し、その資本の価値増殖の手段が「商品」の生産である、と考えました。そして、マルクスが言う「商品」とは、人々の生活に本当に必要で重要なものというより、それがいくらでどのくらい売れるかが重視されるのものであり、さらにマルクスは「人にとって必要な自然から本来無償で供給されるものも、資本主義においては自然から切り取られ『商品』となり価値増殖運動の中に組み込まれて行く。」と説明します。


  確かに我々の身近な例でも、本来、野菜・くだものなんかは自然から無償に産出されるものですが、資本主義下においては「商品」になりますよね。齋藤さんも「100分de名著」の中で指摘してますが、近年その最たる例が「水」だと言います。我々が子供の頃には確かに水は無料でした。しかし、我々はいつの間にか水道水を直接摂取することをやめ、ブランド・ボトルの中で「商品」となった水を、何か特別な価値のあるものとして飲料するようになってしまいました。また、個人的には、その最たる例がスポーツ界だと思います。例えば、近年のオリンピックでは、開会式の席が30万円という価格がつきましたし、最近では、WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)の放送権をネットフリックスが一括購入して、放送権料が従前の5倍に引き上げられた、とニュースを騒がせていました。さらに、健康維持、たくましい(美しい)体づくりのためのジム通い。。このように「資本」はそれまでは無償か、割安で楽しめたものを誰もが欲しがる「商品」として、価値増殖装置の中に組み込み巨大化いくのだと思います。このような卑近な例を見ても、現代はマルクスが主張した時代と全く変わっていないと思います。


  近年の経済学の主流派においては、「イノベーション」や「生産性の向上」については、「イノベーションは既存産業にそれまでにない付加価値をもたらすので、経済成長に必須の経済の成長剤である、」 という認識が一般的だと思いますが、マルクスはこの「イノベーション」に対しても批判的です。例えば工場において新しい機械導入などのイノベーションが起これば、それによってそれまでの生産工程に必要だった労働力が不要になり、労働者過剰が発生します。さらに、その商品生産の過程(生産工程)自体にイノベーションが起こると、それまで複雑だった労働工程が単純化されるため(例えば靴職人は皮の調達や皮をなめしたり、靴の形作り用に、いろいろな工具を使いこなしたりと複雑で年期のいる技術を必要としますが)、それまで必要だった職人技・技術・経験値が必要な労働が細分化・単純化され、(それにより職人の経験や専門知識・技術が不要とされ、)代わりに女性や年少者で代替えのきく労働に置き換わっていく。そして、一般の熟練労働者の代用労働者となった子女の労働賃金は安くなり、労働時間は長くなり、家族をそれまで支えていた熟練労働者が仕事を失い、彼の代わりに女性・年少者が工場で働くようになり、彼らが住み込む宿舎・施設は劣悪な環境のまま放置される、と説明します。(*2)


  このようにイノベーションが余剰労働者を生む、という主張は現代の日本においては違法な「社員切り」「派遣切り」という問題として、昔とは状況や程度の違いこそあれ、存在しています。さらに、イノベーションや生産性の向上は、また別の意味で労働者の労働環境を過酷にします。生産がより効率的に進められていくとどうなるのか? (例えば、近年日本では、働き方改革が叫ばれ、「ワークライフバランス」(仕事と私生活の調和)が提唱されていますが、イノベーションや生産性の向上が労働者を豊かにするのでしょうか。。マルクスの考えは少し違うようです、


  どうしてかというと、イノベーションによる「剰余価値」の増殖は、労働者を効率的に管理することになるからです。前述した労働作業の単純化がさらに進むと、(さきほどの靴製造の例でいうと、靴職人は、)男性女性、年齢別のライフスタイルに合った(つまり、会社勤務用、カジュアル、スポーツ用、、など)靴のデザイン研究、新しい素材の開発などの創造的な部分(これをマルクスは「構想」と呼んでいます。)を、今度は資本家や現場監督が独占し、労働者(になり下がった職人)は生産における「実行」のみを請け負うようになり、(つまり、靴の生産工程が細分化されていき、労働者はその細分された工程のみを受け持るようになるため、その作業は単純化され、そこには労働者の工夫や創造は不必要になる。)生産増加のため単純労働を延々と続けることになります。こうなってくると労働者の精神・マインドの活力は失われ「自らの手で何かを生み出す喜びも、やりがいや達成感、充実感もない疎外された「死んだ労働」となっていく、とマルクスは説明します。


  実はこのような状況は(昔のものだけでなく)現代にも存在しています。さきほどの齋藤さんが実際に体験した「ウーバーイーツ」。好きな時間に自由に働けるとして「新しい働き方」として注目されていますが、「実際の作業は、料理を運ぶだけで、孤独。実際の労働は、ただ携帯の画面上に出る指示を追って配達することだけです。」「労働内容は、完全にウーバーのアルゴリズムと携帯のGPS機能によってきめられていて、冷めないうちに料理を届けられることだけを求められる。構想を奪われた労働者には、創造性や他人とのコミュニケーションの余地はどこにもありません。何より、きちんと働いているかどうかを機械によって監視されているのは気味が悪い。」と感じたそうです。(P93)最近、盛んに論じられるAIやロボットの技術発展が、労働者に「自由な働き方」を可能にする、、と論じる言説も眉唾ものであることを齋藤さん(マルクス)は指摘します。


   では、マルクスにとって、このような労働者に優しくない資本主義を更新する新しい、より人間的な経済論理は何だったのでしょうか。。? 実は、「資本論」の最後(岩波版では第九巻の最後)において資本主義のあとに考えられる経済形式を言及しようとした個所はあるのですが、そこの部分は空欄になっています。(さすがにマルクスから資本論完成を託されたエンゲルスもこの空欄を埋めるのには躊躇があったのでしょう。。)  この空欄を埋めるヒントはないのでしょうか。。実はその「考え」について齋藤さんは、「資本論」第三巻の草稿においてマルクスが書き残したものにヒントがあると指摘します。それは、次のように書き綴っている部分です。「資本主義に代わる新たな社会において大切なのは、「アソシエート」した労働者が、人間と自然との物質代謝を合理的に、持続可能な形で制御することだ。」そして、この草稿にもある「アソシエーション」(労働者たちが共通の目的のために自発的に結びつき、協同すること)がキー・ワードになると語っています。


  かつての社会主義者・共産主義者は、この「アソシエーション」を彼らなりの考え・思想に置きかえ、マルクスの資本論に「階級闘争」という概念を持ち込み、思想対立をあおってしまい、その闘争的な思想が共産主義を結果的に一種の暴力肯定装置にしてしまいましたが、実はマルクスが最終的に考えていたのは、「対立」よりも「協力・協調」ではなかったか。。と個人的には思います。たとえば少し前に「ティール組織」という本を紹介しましたが、これからの資本主義の組織は、上下構造が今よりもフラット的になり、これまでの労働者の裁量がもっと広がっていくような感じがします。そして今よりも各自が己の判断で仕事を処理していく社会になっていくような感じがしますが、みなさんはこの「資本論」を読んでどう感じるでしょうか。。

(*1)100de 名著:(Eテレの名著解説の番組の)テキスト本。斎藤 幸平(さいとう こうへい、1987年[2]1月31日[3] - )さんは、日本の哲学者。専門は経済思想、社会思想、特にマルクス主義研究。東京大学大学院総合文化研究科・教養学部准教授。学位は博士(哲学)(フンボルト大学)。2015年、ベルリン・ブランデンブルク科学アカデミー(英語版)の客員研究員となる。カール・マルクス研究の最高峰とされるドイッチャー記念賞を歴代最年少の31歳で受賞。日本人では初めての受賞となった。(Wikipedia)

(*2)ただし、イノベーションが連続的に起これば、新しい産業が生まれ、それまでの旧産業で過剰になった労働力は、このイノベーションにより起こった新産業において必要な労働力として吸収されていく、このような過程の繰り返しが経済成長をもたらす、というのが近年の経済学の認識になっています。

Hisanari Bunko

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