ダライ・ラマ自伝
メディアを通してチベットの平和を訴える姿がたびたび報道されているダライ・ラマ14世(*1)さん。彼(ダライ・ラマ14世)は1959年中国との問題(チベット動乱*2)発生後、インドでチベット臨時政府(通称チベット亡命政府)を樹立します。その後、2011年に引退するまで、同政府の長を務め、現在でもチベット亡命政府において「チベットとチベット人の守護者にして象徴」という精神的指導者として位置づけられています。ところで、このダライ・ラマ(さん)、どんなことを考え、どんな生活をしている人なんでしょう。。
このダライ・ラマさん、「化身ラマ」とも呼ばれるチベット仏教の最高位の僧侶であり、最高指導者です。そして、その地位は、通常の国王や皇帝とは異なり血縁関係で継承されることはありません。チベット仏教では、現代でも「生まれ変わり」の思想が生きていて、前代のダライ・ラマが死ぬと、その「ダライ・ラマ」(という一種の呼称)は、次の生まれ変わりに継承されていくのです。彼はまた観音菩薩の生まれ変わりで、人々を導くために輪廻を繰り返すとも信じられています。
そのダライ・ラマ14世自身が書き著したのがこの「ダライ・ラマ自伝」です。本書では、彼が幼いころの記憶(*3)や、ダライ・ラマとしてチベット仏教化に見出されてからの生活や学んだ学科などが書かれています。彼が幼い時から勉学において大切してきたのは、チベット僧院教育制度の基本である「弁証法」と「討論技術」です。チベットでは討論会が盛んに行われるようですが、その討論会では、特に相手の命題をユーモラスに自分に有利にもってゆく才気や機知(ウィット)が高く評価されます。この討論会で発揮される才能が、その僧侶の知的成果を判定する基準となるため、ダライ・ラマ14世も十歳の時からこの科目を学び始め、十二歳になると二人の弁証法論理の熟達者がコーチとして彼につき、彼の討論術の向上をサポートしたのです。
チベット仏教の最高指導者となった1951年から彼は、精神・知識の向上を目指し、日課として一日最低5時間半をお祈り・瞑想・勉学に費やしています。シロウトが 外から見ると何のために何時間もお祈りに時間を費やすのかわかりませんが、ダライ・ラマは祈りには三つの理由があると言います。一つは日々の務めを全うするための心構え、次が時間を充実させるため、そして最後が恐怖を和らげるためです。うーむ。。確かに短時間でも、眠る前のお祈りや瞑想を通じて精神を集中すると心が安定しますが、ダライ・ラマさんは、お祈りや瞑想を意識的に高次元の精神トレーニングとして位置づけ、精神の安定や自らの責務の質の向上のために行っているのだと理解しました。
日本の 6.6倍に当たる面積(約250万㎡)と平均高度4,500メートルというその国土全てが山岳・高原地帯にあるチベット。人口も約370万人にすぎません。(Wikipedia)。日本とは民族性や習慣も全く異なるチベットですが、本書においてとても興味深かったのは、長年、先進国から神秘的・魔術的とも言われてきたチベット仏教の思想・慣習です。その一つが前にも触れた「輪廻転生/生まれ変わり思想」です。 端的な例では、ダライ・ラマが無くなると、チベット仏教・政府関係者は新しいダライ・ラマを国内や国外から探し出し、一定の条件にかなった幼児を新生ダライ・ラマとして認め、ダライ・ラマとしての教育を施すのですが、本書には、その新生ダライ・ラマを探す過程が紹介されています。
「この作業は思うほどミステリアスではない。ある特定僧(ダライ・ラマ)の化身を求めている場合、最初にその僧がいつ、どこで死んだかを確認する。次に新しい化身は前者の死後一年ぐらいで誰かの胎内に宿ると考え、それをもとに時間帯が推定される。で、『もしラマXがY年に死ねば、彼の次の化身は十八か月から遅くとも二年以内にどこかで生まれているだろう、ということになる。Y年に五年足せば、その子供は三つか四つの子供に成長しているはずだ』という具合に探索範囲は限定されるのである。」 そしてラマの化身の年齢を推定した後は、生まれた場所の特定作業に移ります。「これはいたって簡単。まずチベットの内か外か?もし外ならインドのチベット社会か、ネパールとかスイスとか生まれそうな場所は限れている。その中から一番可能性の高い町を決め、前化身の履歴を辿って追跡する。」
個人的には、ある人が逝去してまた生まれ変わるなら、その人の死んだ正確な時間を特定し、同時刻か、またはその時刻以降に生まれた新生児を対象とすべきと思いますが、なぜ、そこから十八か月も待つのか、、またどうして新生ダライ・ラマ生まれそうな場所の候補の一つがスイスなのか、、本書ではこれ以上の説明がないのでわかりませんが、新生ダライ・ラマを特定するための一定の検証方法がチベット仏教界には確立されていて、しかもそれは純粋に科学的な方法というよりは、長年の伝統的なやり方に依存している、というように感じました。
また、チベットには、仏の意志や導きの言葉を伝える「お告げ師(ネチュン)」が存在するのも興味深いと思います。(歴史的には、祈祷・占い・神託を伝える同様な役割を、例えば、古代ギリシアのデルポイの神託所に住む女神官が、日本では巫女が担っていました)チベット政府とダライ・ラマは、新年や重要問題が発生するとこのネチュンにお伺いを立て「神託」を授かるのが伝統行事になっています。(下の写真は、お告げの儀式中のネチュン)
このお告げ師の儀式、まずネチュンが着る衣服が圧倒的でカラフルです。七重の衣をまとい、赤、青、緑、黄色の古代模様で飾られた豪華絢爛な金の錦織のローブで着飾り、頭には幟を付けた装身具を、また鉄の円鏡などを身にまといます。その総重量は 32キロを超え、彼がいったんトランス(憑依)状態いるとそばにいる僧が支えなければなりません。儀式はホーン、銅鈸(どうばち)、ドラムのけたたましい響きで始まり、続いて降霊祈願、呪文誦詠の後、ネチュンはトランス状態に入っていきます。(彼の息遣い、形相がかわり、突如威厳をもった威嚇的足取りで踊り始めます。)そうしてダライ・ラマとネチュンとの質疑応答が繰り返えされていきます。
尚、この儀式を行うにあたっては、お告げをうける側はネチュンに対する配慮必要なのだとダライ・ラマは語ります。「ネチュンを扱うのは決して容易ではない。彼が口を開くまでいつも時間と忍耐を要する。非常に控えめであるが峻厳であり、まるで古(いにしえ)の大長老を思わせる。彼は些細(ささい)なことは無視し、関心はもっぱら大きな問題に向けられる。だから質問もそれに合わせて考える必要がある。彼は好き嫌いがはっきりしており、しかもそれをおいそれとは表に出さない。」
我々日本人からすると、前近代的で胡散臭いようにも思えますが、ダライ・ラマによると「私の内閣や私自身の良心に相談するのと同じようにネチュンから意見を求める」のであり、ネチュンは常に正しい答えを返してくるのだそうです。
このように、チベットという国やチベット仏教習慣について書籍を書き綴り、チベットに対する外国の理解を促進するダライ・ラマですが、実は、書籍を書いく目的は別の所にもあるよです。それは中国との関係です。 本書でもその後半部分(第十三章チベットからの便り、第十四章 平和への提言)では、チベットを共産主義国化しようとする中国の統治の実態(しかし、ダライ・ラマの教養ある語り口でかなり抑制された表現になっていますが)がかなり生々しく、具体的に語られています。(おそらくここに書かれている内容は1970年から1980年代頃のように思われます。また私の稚拙な記憶では、本書においてダライ・ラマが記述するようなチベットにおける中国政策については、日本ではあまり報道されていなかったと思いますが、)その実態は、中国の「文化革命」を連想させるものがあります。チベットのために親政を施す、というような甘言でチベットへ進出し、重要なチベット文化施設を次々を接収・破壊し、チベットの各地区に中国人を植民させ、もともとそこに住んでいたチベット人は住居を失い、結果的には、路上生活や物乞いに身をやつすような最低限の生活を強いられてしまうのです。ダライラマの説明によれば、この人口移住政策により、本書が書かれた当時の600万のチベット国民に対し、中国人はすでに750万人に達しチベット人口を上回っている、という記述があります。(更に本書における推定では、2001年にはその数が、2,500万人になる、という記述もあります)
例えばイスラエルが、1950年度頃から段階的に自国民をパレスチナへ住まわせる移住政策を行っていますが、中国も同じように、人口にものを言わせチベットの独自の国民性・文化性を浸食しているのでしょう。。この後半部を読み終えて、やっとダライ・ラマ14世 が本書を書いた目的が理解できたような気がしました。。。前述しましたが、ダライ・ラマという人がどんな人で、何を考えているのか、、などまったく知りませんでしたが、今回本書を読んで、彼の見識・物事の洞察の深さ、祖国チベットが中国外交に翻弄されている中でも決して悲観せずユーモアや機知をもって達観する姿勢(その裏にある忍耐と信仰の深さ)、、やはり世界でも名だたる知識家、教養家、宗教家の一人であると感じました。
*1:ダライ・ラマ(ラテン翻字: Dalai Lama)とは、チベット仏教ゲルク派の高位のラマであり、チベット仏教で最上位クラスに位置する化身ラマの名跡。チベットとチベット人民の象徴たる地位にある。その名は、大海を意味するモンゴル語の「ダライ」と、師を意味するチベット語の「ラマ」とを合わせたものである。
ダライ・ラマは17世紀(1642年)に発足したチベット政府(ガンデンポタン)の長として、チベットの元首の地位を保有し、17世紀から1959年までの間のいくつかの特定の時期において、チベットの全域(1732年以降は「西藏」を中心とする地域)をラサ(チベットの古都)から統治するチベット政府を指揮することがあった。現ダライ・ラマ14世は、チベット動乱の結果として1959年に発足した「チベット臨時政府(のち中央チベット行政府、通称チベット亡命政府)」において、2011年3月14日に引退するまで政府の長を務めていた。現在のチベット亡命政府では、「チベットとチベット人の守護者にして象徴」という精神的指導者として位置づけられている。(以上、Wikipedia)
*2:チベット動乱:中国政府のチベット統治、支配に対し、アムド地方、カム地方における「民主改革」「社会主義改造」の強要をきっかけとして1956年に勃発し、1959年に頂点に達したチベット人の抗中独立運動のことである。中国政府はチベット反乱と呼ぶ。(以上、Wikipedia)
*3:1935年にアムド地方(現在の青海省)の農家に出生。幼名はラモ・トンドゥプ。4歳の時にダライ・ラマ14世として認定された。
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