世間の非常識こそ、わが常識 - 起業家・江副浩正の野望

      この「世間の非常識こそ、わが常識 - 起業家・江副浩正の野望」(著者 / 大下英治氏)は、リクルート(現、株式会社リクルートホールディングス)を創業した江副浩正氏の生い立ちから起業、そして、経営者として会社を大企業に成長させ、その過程で起こしたいわゆる、「リクルート事件」(戦後最大の疑獄事件(注1)といわれる)あたりまでを描いた企業小説です。以前、総務で行ったプレゼン「死ぬほど読書」の中で起業家・鉢峰登氏(現、株式会社オプトホールディング代表取締役社長 グループCEO)の著書「役員になれる人の読書力の鍛え方の流儀」を紹介しましたが、その巻末に掲載されていた推薦本コーナーの中の一冊でもあるので、今回選びました。( 今まで「リクルート」というと、単に、求人広告とか、新卒採用情報サイト「リクナビ」ぐらいしかイメージがなかったんですが、、、うーん、、浅はかでした。。江副さんとリクルートって奥深いですね。。今回読んでいろいろな意味で勉強になりました。江副さん、すいませんでした!もっと勉強しまっす!)

  この小説の主人公、江副浩正(えぞえひろまさ)は、父良之、母マス子との間に昭和11年6月12日、母親の郷里の愛媛県越智郡波方村(現在の今治市)に生まれます。父、良之は女性関係にだらしないところがあり、浩正は生涯3人の母を持つことになります。江副にとって、この子供時代の複雑な家庭環境は、後年の起業活動、経営活動に大きく影響していきます。(実際、東大では児童心理学を専攻しましたが、「江副があえて児童心理学を専攻したのは、三人の母親を持たされて歪んだ自分の性格を、あらためて冷静に、可能な限り科学的に分析してみたかったせいである。」(P76))

  彼は、甲南中学・高校を卒業後、東京大学教育学部に進学し、ある日、キャンパスの掲示板で「(財団法人)東京大学新聞社の「編集・営業アルバイト募集」の貼り紙を見つけます。 江副はこのアルバイト広告をみて営業の仕事を志願します。当時、東大新聞に応募する学生の九割は(営業ではなく)編集希望で、江副のように、いきなり営業を希望する者はいませんでした。また編集希望の者でも、編集アルバイトは新聞社への就職に有利だからという理由で入る者が多かったのです。また、当時は、東大の家庭教師の方が収入もよかったのですが、江副は営業でもらえる二割五分の歩合制の収入の方により魅力を感じ、出版社や予備校の広告を取ってくるようになります。世間では、昭和35年の安保改定に向けて学生運動が巻き起こっている最中でしたが、江副はまったく学生運動に興味を持ちませんでした。「『革命とか、戦後民主主義教育とか、調子のええ建前にすぎん。そんな建前のために動けるか。。』 江副の脳裏には、はっきりと父親の姿があった。江副は、人間の建前と本音の落差を、いやというほど見せつけられていた。『おれには、建て前のために殉じることなど、阿呆くそうて、できへん。』」(P62) この頃、江副は自己変革を考え始めていた時期で、(父親も好きだった)社交ダンスやスキーにも興味を持つようになります。

   昭和33年頃から企業の就職説明会が、少しずつ各大学で開かれるようになりました。営業活動で、こまめに企業の総務部をまわっている江副は「ひっとしたら、日本もこれから何年か先には、企業の方から頭を下げてぜひうちの会社に入って下さい、と頼みにくる時代が来る。。」と考えるようになります。その兆しは、すでに就職説明会という形であらわれてきていました。東大でも、その説明会のために教室を開放するようになります。「求人募集を企業が定期的にやるのなら、もっとスピーディに企業のコンセプトが学生に伝わる方法はないやろか。。」(P70)と、それまで商品広告だけだった東大新聞の広告に企業の就職説明会の広告も載せるように画策します。このような求人広告の活用は、東大構内でおこなわれる会社説明会へ学生を勧誘する手段としても展開され、企業側の求人意欲を刺激し、広告の必要性が再認識されるようになります。東大の卒業を控えた江副はある決心をします。「これからは企業はPRの時代や、大学生をたくさん採るようになる。この二つの需要を満足させると、商売になる。」(P83) そうして、江副は大学卒業後、東京・港区南佐久間町(西新橋)の第二島ビル(実際は森ビル)屋上にある物置小屋のような事務所に「大学新聞広告社」という看板を掲げます。この会社は同年法人化され、社名を「株式会社大学広告」とし、江副は代表取締役に就任。(これが後年の「リクルート」になるのです。)初年度売上450万円。翌年売上2,500万円、純益500万円と徐々に会社経営が軌道に乗り始めます。江副は大学新聞だけではなく、自分たちの媒体をつくることを考えます。その内容は、「企業の求人広告だけの本にして、いわば就職のための会社年鑑、入社案内のダイジェスト版の性格を持たせ、年一回の発行とし、無料で学校や学生個人に配る。」というものでした。江副はその発刊準備に取り掛かります。そして、この構想は「企業への招待」という本に結実し、この媒体を核として江副の会社は成長を続けるのです。そして、江副は昭和38年4月、社名を「日本リクルートメントセンター」さらに、同年8月「日本リクルートセンター」とします。この後、会社は、日本の高度経済成長期において「広告」「人材」という分野にフォーカスし、「月刊リクルート」「週刊就職情報」等の情報媒体を増やしていき、同時に会社の規模、売上も伸ばしていきます。(ちなみに、社名を「株式会社リクルート」にしたのは昭和59年です。)

   この頃の日本といえば好景気の真っただ中で、都市開発、工業地開発により地価が上昇している時期で、また1970年代に入ると「日本列島改造論」による開発ブームや過剰流動性を背景に,土地の実需のみならず投機的需要の拡大による地価の上昇が起こります。そうした土地開発需要を背景に、江副は一千億円ともいわれる住宅広告市場に目を向けます。「おれたちは、人生の重要事の情報を提供すると思えばいい。誕生、進学、就職、結婚、育児、住宅、転職、老年、節目節目の情報をよりきめ細かく、スピーディーに、確実なものを届けるわけだ。住宅に関する情報を扱って不思議はない。」(P328)さらに、江副は、本社ビル移転のための土地取得などで、土地開発自体に興味を持つようになります。「いますぐに土地を探しといたほうがええんや。大蔵省の知人や不動産業者からの情報だと、これから数年後には、猛烈な土地ブームが来るという、そのときあわてて探し出しても遅いと思う。おれは専門家の話を聴いていると、そんな気がするんや。」巧遅よりも拙速、を重んずる江副は、昭和48年(1973年)10月に社員に特命でマンション分譲事業を命じます。(P306)「駅裏に土地を買い、そこにビルを建てることによってよその会社が事務所を借りる。会社が来ると、必然的にまわりに商店ができる。人も集まる。それでどんどん町が明るくなっていく。暗い町が明るくなる。裏側が発展すると刺激を受けて反対の表側も頑張る。相乗効果で、土地の値段がどんどん上がっていく。。。。」(P311)また、このころ(昭和49年2月)「環境開発」という会社を設立。後年、江副は社名を「リクルートコスモス」に変え、マンション分譲を展開。事業拡大する過程で、献金を通して徐々に政治家との関係を強めるようになります。そして、この会社が、いわゆる「リクルート疑獄」の中心的存在となるのです。

   リクルートセンターは昭和51年「月刊住宅情報」を刊行。(のちに「リクルート」史上最大のヒット商品になります。)日本リクルートメントセンターは昭和49年に売上103億円、そして昭和53年に売上193億円、利益11億円を達成。ついに、昭和56年3月末、銀座八丁目に本社ビルを竣工します。その竣工から1年後、同ビル地下にクラブ「パッシーナ」を開店し、政界財界学会関係者との接待に利用します。

   江副はある日、「ミサワホームがコンピュータを使って、住宅情報を売り出している。」という情報をキャッチします。「もし、ミサワの住宅情報オンライン・ネットワーク・システムが確立されると、うちのやっている『住宅情報』など、木端微塵に吹き飛ばされてしまうぞ。」と危機感を募らせた江副はコンピュータ室の社員に発破をかけます。「私はコンピュータのことはわからない。きみたちで大至急システムを考えてくれ!とにかく一年以内だ。一年以内にコンピュータを入れて、住宅情報を中心とするネットワーク事業を考えてくれ、俺の予想ではコンピュータ社会は、君たちの考えているより、十年早くやってくると見ている。やってきたとき考えては、もう遅いんだ。」(P381)こうして、江副は新規事業であるRCS事業(注2)に取り組みます。その新事業のため、川崎駅西口開発の打診を川崎市より受けていたリクルートは、多少の紆余曲折を経て昭和59年8月「コンピューターセンタ」として開発事業に進出する意向を伝えます。建設するビルの容積率にこだわった江副は、川崎市に対し「あの地区を、特定街区にしてするよう」働きかけます。江副はまた、「コンピュータビルは、コンピュータを入れる設備であるだけではないぞ、新しい情報を呼ぶ発信基地となっていく、そのビルを一大情報通信ネットワーク事業の発信基地にしなくてはならない。」(P416)とINS事業(注3)の一環としてデジタル回線リセール事業を構想します。しかし、この「回線リセール事業」には交換機やデジタル回線の利用などの技術が不可欠でした。当時リクルートには通信技術者が少なかったため、電電公社(日本電信電話公社のちのNTT)の支援を得る必要性に迫られます。また、このようなコンピューターネットワーク事業には百億円や二百億円ではきかない巨額の投資資金が必要になります。

  このため、江副は、事業拡大に必要な協力者を想定し、そうした政治家、企業家、官僚へ(店頭公開することを視野に入れ)「リクルートコスモス」をはじめ関連会社の株を譲渡していきます。(この「未公開株式譲渡」によって江副はリクルート事業を有利に展開していくことになります。)例えば、INS回線など必要な通信インフラの工事等の支援は電電公社から遅延なく受けることができましたし、また、同社を通してアメリカのクレイ社のスーパーコンピュータの購入も可能となったのです。(当時、リクルートのコンピュータ事業には性能の優れたアメリカ製のスーパーコンピュータが必要でした。)

  そして、ついに昭和63年6月18日、朝日新聞の全国版朝刊社会面のトップに「リクルート川崎市誘致時助役が関連株式取得、公開で売却益1億円」という見出しが躍ります。前述した川崎市への働きかけも実は「未公開株譲渡」だったのです。同年7月江副はリクルートとリクルートコスモスの会長を辞任します。平成元年二月ついに江副は、東京地検特捜部に「贈賄容疑」で逮捕されます。本書ではこの逮捕後、出所し、ダイエーの当時の会長、中内功にリクルート株の安定株式保有を依頼し、経営参加してもらうことでリクルートを守ろうと画策するところで終わります。(ちなみに、江副氏は、2013年(平成25年)2月8日に東京都内で死去、享年76でした。)

  尚、前述の戦後最大級の疑獄事件といわれたリクルート事件で、創業者である江副が経営から退いたリクルートですが、「(リクルートは)ダイエーの系列下に入ったが、ダイエーグループの業績悪化などにより2000年頃にグループ離脱、ダイエーより来た高木邦夫の下、バブル期の不動産やノンバンク事業の失敗で94年3月期に約1兆4,000億円あった有利子負債を自力で完済した。現在はどの企業グループにも属さず、サービス業としての中立性を維持しながら事業展開している。」(Wikipediaより)  

  うーん、法に触れることもやってますが、経営者としては先見の明があったりでとても興味深い人物ではありますね。江副さんをもっと研究したい方には、江副さんの生涯と仕事を解説した「江副浩正」(著者、馬場 マコト氏、 土屋 洋氏)、リクルートの起業家精神について本人が語った「リクルートのDNA―起業家精神とは何か 」(著者、江副浩正)そして、リクルート事件について自らが明らかにした「リクルート事件・江副浩正の真実 」(著者、江副浩正)があります。

(注1)疑獄事件:政治問題化した大規模な贈収賄事件。(注2)RCS事業:スーパーコンピューターを通信回線で結び、時間貸しをする事業。(注3)INS事業: 電話・データ通信・ファクシミリなどを一本化した高度情報通信事業。